----- 汝の罪人を愛せよ


   >>> 15


「お嬢さんはご在宅ですか」
 幸と丸山は妃奈子の家の玄関先にいた。
「ごめんなさい、昨日から様子がおかしくて。調子が悪いとかで今日はまだ一歩も部屋から出てこないんです」
 そういいながら妃奈子の母親は幸をちらちらと見ている。どこかで会ったはずだが思い出せないといった様子だった。見かねて幸は病院での一件を話す。
「ああ、あの時の…」
「はぁ、僕も動揺してまして。すみませんでした」
 幸が頭を下げると母親は慌てた。丸山が話題を変えるように間に入った。
「奥さん、お嬢さんに確認して貰いたいことがあるんですがね」
 母親は玄関から少し奥のドアをノックする。
「ヒナ、入るわよ?」
 そう言って母親は中に入っていったが、しばらくも経たないうちに顔色を変えて部屋から飛び出てきた。
「刑事さん、娘が…」
 それきり絶句した母親を脇に押しやるようにして二人は上がり込んだ。
 妃奈子はベッドから上半身を起こしていたが、母親と同じように顔は青ざめていた。
「どうした?」
 幸は妃奈子に近づく。首元に目をやって幸は足を止めた。妃奈子の首には手の跡がうっすらと赤くついている。丸山が幸の背後から覗き込む。
「お嬢ちゃん誰にやられたんだい」
 妃奈子は首を振った。幸は首に付けられた跡をよく見ようと妃奈子にそっと手を伸ばす。妃奈子がびくりと体を硬直させたので幸は慌てて手を引っ込めた。
「ああ…、悪い」
「ヒナ、黙ってないで。何があったの?!」
「まあまあ奥さん、落ち着いて」
 丸山が取りなすが母親は再度、妃奈子と叫んだ。 
「昨日なんかあったのか?」
 幸はかがみ込んで妃奈子の顔を覗き込んだ。妃奈子はややためらって頷いた。
「お兄…」
 掠れた声で言いかけて妃奈子は咳き込んだ。
「…ママには言えない」
「妃奈子?!」
 真っ直ぐ見つめる瞳に、幸は分かったと頷いた。丸山と母親の方を振り返る。丸山は何も言わずに頷くと、母親に部屋から出るよう促した。
 ドアが閉まるのを確認して幸は妃奈子の方を向いた。ベッドの脇に腰掛けて妃奈子を見る。
「家まで送ればよかったな」
 妃奈子は首を振った。そうじゃないと小さな声で答える。塙志の件を話すと幸は目を見開いた。
「ママにその首は何って言われるまで夢だと思ってたのに…」
「イヤだろうけど、跡を見せて」
 妃奈子は恐る恐る顔を上げた。白い、細い首が露わになる。紺色のキャミソールが白い肌をより強調させていた。幸は思わずごくりと喉を鳴らした。
 手を伸ばして髪で隠れている部分を晒す。指で触れると確かに誰かに絞められた跡だった。妃奈子が不意にその腕に触れた。
「あ、ごめ…」
 だが妃奈子は幸の腕を強く握った。
「ごめんなさい。でも、もうこんなのイヤだ」
 幸は妃奈子の首から手を離した。自分の手を掴んでいた妃奈子の腕を取ると、妃奈子は俯いた。
「保苑さん助けて」
 一瞬の間をおいて、幸は妃奈子を引き寄せた。
 妃奈子は難なく幸の腕の中に収まる。ガラス細工を抱きしめているような気がして、無意識のうちに入りかけた腕の力を慌てて緩めた。それほど妃奈子が脆く感じて幸は戸惑った。
 妃奈子がおずおずと幸の胸元のシャツを掴んだ拍子に、その腕が幸の目に飛び込む。刃が掠めた肩の傷跡と、まだ絆創膏が貼られている二の腕と。
「アンタは身も心もまさに満身創痍だな」
 そう言いながら幸は妃奈子の頭をそっと撫でる。
「もう終わるよ」
 え? と呟いた妃奈子に、幸はゆっくり体を離すと写真を取り出した。 
「こいつに見覚えある?」
 最初は不思議そうに写真を見ていた妃奈子の顔色が、何かを思いだしたかのように急に変わった。
「あるんだな。…うん、分かった」
 幸は納得するようにそう言うと写真をしまった。用はこれだけだと言って立ち上がると妃奈子はその動作を目で追う。幸はまるで犬でも撫でるような仕草で妃奈子の頭を撫でた。
「待って、なんで…?」
「悪いけど、あの時計は返せない」
 妃奈子は慌ててベッドから立ち上がった。
「もしかしたら直接ではないにせよ、あの男と会わなきゃならないかもしれない。不安ならそれはしばらく持ってていいよ」
 妃奈子が立ち上がるときに手にした自分の時計を見ながら幸は静かに言った。じゃ、と部屋を出ていこうとする幸のシャツを妃奈子が掴む。幸は振り返って妃奈子を見下ろした。
「頑張れ」 
 さっきとは違う恐怖心を露わにした妃奈子の肩に手を置いてそう言うと、幸はドアを開けた。


◇ ◇ ◇


「僕に何かご用ですか」
 シンプルだが一目見て質が良いと分かる高そうな服に身を包み、外車の脇に立って彼、井伏史信(いぶせ ふみのぶ)は涼やかにそう言った。
 異世界にやって来たかのように丸山が辺りをぐるっと見渡す。そこには同じように外車や国産の高級車がずらりと並んでいたが、さっき潜った門には確かに大学名が刻まれていたはずだった。
「不況だなんだって言っても、あるとこにはあるもんなんだなぁ」
 幸の背後で丸山がそう呟く。それを胡散臭そうに見つめている史信を惹きつけるように幸は咳払いを一つした。
「時間はとらせませんよ。これに見覚えはありませんか?」
 幸は例の時計を取り出した。史信は目を細めてそれを見ると、特に顔色も変えずにああと一言声にした。
「それ、僕のですね。無くしてしまって諦めていたのに。どなたか届けて下さったんですか?」
 そう言いながら時計に伸ばそうとする史信の手を幸はひょいとかわした。
「二年前にあなたのご自宅の近辺で男子高校生が集団暴行で殺された事件をご存知ですか」
「二年前ですか。ちょっと記憶に疎いなぁ」
 史信はそう言いながら曖昧に笑う。幸はポケットに時計をしまうと淡々と続けた。
「その殺された子は妹を庇って犠牲になったんですけどね」
「その事件と僕の時計が何か?」
「時計はその妹が持っていました」
「それで?」
 尚も顔色一つ変えない史信に幸は静かに微笑む。
「その時計をいつ頃、どのように無くされたか、詳しくお聞きしたいんで署までご同行願いたいんですが」
「別に構わないよ」
「すみませんね、わざわざ。お手数かけます」 
 お互いひんやりとした空気を醸しだしたまま、三人は覆面パトカーに乗り込んだ。
 車が動き出してしばらくすると史信が口を開いた。
「その手の事件は別に珍しいことではないんでしょう?」
「その手と言うと?」
「集団暴行ですよ。よく公園やなんかでサラリーマンがやられちゃうのを聞きますけど」
「…ええ。その通りです。最近多いですね」
 ハンドルを握りながら幸は答える。署に戻れば加東が妃奈子を連れてきているはずだ。彼女を見たときの反応はどうなのだろうと、幸は史信の冷徹そうな目元をバックミラー越しに見た。
「僕にはそんなコトする連中の心理が分からないな」
 史信はそう言うとふふっと笑った。
「ええホント。仕事とは言え、分かりたくもないですね」
 そう答えた幸の顔は史信よりも一層冷ややかだった。史信の横で丸山が鼻で笑った。

「どう? 彼に見覚えはあるかしら?」
 妃奈子の脇で加東が問いかける。妃奈子は監視カメラが映し出した取調室での史信の姿を凝視していた。加東の問いに答えもせず、妃奈子はひたすらやりとりを見守る。
 先ほどから史信は実に巧妙にするりするりと幸と丸山の質問をかわしていた。
「保苑刑事じゃないと答えてくれないのかしら」
 苛立ったように呟く加東にようやく妃奈子は振り向いた。
「悪いけど、保苑刑事は一人しかいないの。少しはあたしにも協力してくれないと困るのよ」
「そんなつもりは…」
「彼、かっこいいものね。警視庁捜査一課の期待のホープらしいし、狙ってる子はたくさんいるわ。妃奈子ちゃんが気を引きたいって思うのも無理はないけど」
「加東さんも狙ってるうちの一人なの?」
 妃奈子は眉をひそめて加東を見つめた。加東は誤魔化すように笑ったが、図星と言っているようなものだった。
「加東さんの言う通り、あたしは保苑さんが好き」
 再びモニターを見つめながら妃奈子は言った。
「本気であたしのことを心配してくれた人は保苑さんが初めてだもん」
 加東は眉間にしわを寄せて妃奈子を凝視する。モニターから派手な音とともに激しく立ち回る様子が映し出されて加東は慌ててそちらに注意を向けた。その様子をつぶさに見つめながら妃奈子は言った。
「だけどね、今はそんなことどうでもいいの」
 妃奈子は声のトーンを落とした。
「あたしに思い出して欲しいんでしょう?」

「いい加減にしてくれないかな。二年前のことなんて覚えてるわけないだろう?」
 がたんと椅子から派手に立ち上がると史信は幸を睨みつけた。
「そうかなぁ。見たところ記憶力は良さそうだけど」
「訴えても良いんだよ」
「それなら早いとこ思い出す方が金もかかんないし、いいんじゃないの」
 幸がへらっと笑う。
「ま、キミが思い出せなくっても、当時のキミを必死に思い出そうとしてる子がいるんで、我々にとってはこの時間は無駄には過ごしていないよ」
「なんで今頃?」
「いろいろと諸事情がありまして」
 史信は鼻で笑った。
「頭を蹴られたショックでおかしくなったんじゃないのか?」
「そういうことも含めましてね、いろいろあるんです」
 入り口の辺りに立っていた丸山がにやりと笑って幸に目配せする。幸もタバコに火を付けながら口元を緩めた。
「僕の父が誰かは知っているだろうね」
「ええ。存じてますよ」
「いい加減なことを言うとただじゃ済まされないよ」
「それはどういう意味でしょう?」
 史信が苛立ったように再び幸を睨み付けた。
「君を免職にすることなんて簡単なんだよ?」
 幸はへえと答えると、鼻で笑いながら目を細めて史信を見据えた。
「よく言うよ。七光りが眩しくって顔が見えねーわ」
「なっ…」
 史信は机越しに幸の胸ぐらを掴んだ。それでもなお、幸は挑発するように笑みを浮かべる。
「ただでさえスネかじりまくってんだろうになぁ?」
 咄嗟に振り上げた拳に丸山がおっと、と口を挟んだ。
「そいつに手を出せば、公務執行妨害で帰れるもんも帰れなくなるけどいいのかい」
 史信は舌打ちをすると乱暴に手を離す。
「令状もないし、ただの任意同行なんだろう? 僕はこれで失礼するよ」
 そのまま帰ろうとする史信に丸山が待った、と声をかけた。
「つかぬ事を聞くが、なんで被害者の娘さんが頭蹴られたってご存知なんです?」
「え?」 
 史信はきょとんとしたように丸山を見つめた。
「その事はマスコミには発表してないんですがね。どこでお知りになったんでしょう?」
「父親の職業柄、マスコミからじゃなくても情報は入ってくるよ」
「二年前のことなんて覚えちゃいないって言ったじゃないですか」
 苦虫を噛み潰したような顔を見せて、史信は荒々しくドアを開けた。
 
 妃奈子は慌てて立ち上がった。
「あ、ちょっと、妃奈子ちゃんだめよ。部屋から出ちゃ…」
 加東が言い終わらないうちに妃奈子は部屋を飛び出していた。壁を挟んだもう一方の部屋から出てきた史信は廊下を歩き始めていたが、何事かと振り返った。
 二人はしばらくその場に立ちつくしてお互いを凝視していた。
 切れかけた蛍光灯が二人の頭上でちりちりと不穏な光を放って、ただの廊下は一層不気味さを増す。
 先に口を開いたのは史信の方だった。
「まさか、君が?」
 固唾を呑んで幸達が見守る中、妃奈子はごくりと息を飲んだだけだった。
「…そう。今頃どういうつもりか知らないけれど、分かってるの?」
 史信はゆっくりと妃奈子に近付く。
「君は隠蔽罪に問われるってことなんだよ?」 
 腕を取ろうとした史信に妃奈子は小さく叫び声をあげた。幸がその手をひねり挙げる。史信は苦痛で顔を歪めた。
「それはお前が認めたと受け取っていいんだよな?」
 今度は幸が史信の胸ぐらを掴んで壁に押しつける。
 その時、幸は腕を引かれて振り返った。
「及川…?」
 訝しむ幸に、我に返った妃奈子が手を離す。それを見て史信はせせら笑った。
「あの時と同じだな。君は全然変わってないよ」
 幸と妃奈子はお互いに相手を驚愕の眼差しで見つめ合った。時が止まったのではないかと思えるような沈黙が続く。だが幸は史信を床に引き倒してそれを断った。
「ダメ、やめて…」
「何を…」
 言いかけた幸が首根っこを掴まれて床に引き倒された。見上げるといつの間にいたのか蓼倉が立っていた。
「あ」
「心得その1」
 腕組みをして幸を見下ろす蓼倉に、幸は気まずそうに答えた。
「…キレてもキレるな」
 よろしい、と蓼倉はにっと笑うと幸に手を差し出して引き起こした。一同はぽかんとそのやりとりを見ていた。
「なんで、ここに?」
「アンタをこの件から外させるために来たんだよ」
 そこへダークスーツに身を固めた中年の男がもったぶった様子で現れた。丸山はその姿を見て即座に舌打ちをする。
「井伏氏の顧問弁護士です」
 そう言いながら男は床に転がされたままの史信を眉をひそめて見下ろした。
「これがどういうことかよくお分かりでしょうな」
「…ええ、ウチの若造も血のっ気多くて」
 蓼倉がうっすらと笑みを浮かべながら答えた。男は鼻を鳴らすと史信を引き起こす。
 途端にホッとしたような表情を浮かべて、史信はざまみろと言わんばかりに幸を見やる。
 男に連れられて署を後にする史信を幸は渋い顔で見送る。
「幸、ゲーム・オーバーだよ」
 背後で蓼倉が呟いた。


back    index    next


Copyright (C) 2002 Mutsu Kisaka All Rights Reserved.