----- 汝の罪人を愛せよ
>>> 16
史信を目の当たりにした瞬間、妃奈子の中で何かがぱちんと弾けた。
頭の中にさっと涼風が吹き抜けて、妃奈子の頭の中で霧のようにモヤモヤとたちこめていたものが一掃された。訳の分からない不安感も、恐怖感も手に取るように理解できた。
今はもう何もかもがクリアだった。
あの時と全然変わってない。
そうだ。
でも、なぜ?
気持ちはこんなにも違うのに。全くの無意識で行った動作は、止まったままの時が再び動き始めて、まるで一時停止していた動作を機械的に再生しただけのようなものだった。
妃奈子はゆっくりと頭の中を見渡す。
そして、ぽっかりと空いていた部分に何が埋まっていたのかを妃奈子は思い出した。
そうだ。
あたしはあの人に恋をしていた。
そうだ。
史信は学校帰りに駅前でよく見かけていた。地元の高校じゃないその制服は都内の有名私立高校のものだった。それが一層眩しく見えた。
何となく目で追っていたのが、ある日ふと向こうと目線が合った。
その涼しげな眼差しで見据えられて、言葉を交わさなくても気持ちが伝わってしまったような気がした。
あの日はどうしてあんなことになってしまったんだろう?
なぜあの日に限って、後をこっそり付けて家はどこなのか知りたいと思ったんだろう?
公園に入っていく史信をなぜ不審に思わなかったんだろう?
その彼が、友達から何かを買っているのを見たりしなければ、まだ救いがあったかもしれない。
塙志が通りかかったりしなければ。
今なら分かる。史信はドラッグを買っていたのだ。それを目撃した妃奈子は彼らに見つかった。どのようにして妃奈子に口止めさせようかと史信達が思案中のところへ、塙志が出くわしたのだ。
絡まれていると思った塙志が間に入った。
そして。
その時の光景が頭の中で鮮やかに甦って、妃奈子はその場に崩れるようにしゃがみ込んだ。
それに気付いた幸は妃奈子に近付く。
「及川、大丈夫か?」
幸が差し出した手から妃奈子は逃げた。よろよろと立ち上がると、捜査員一同をぐるりと見渡した。妃奈子は駆けだした。
「おい、待てよ。どこ行くんだ」
幸が慌てて後を追う。それを見て加東も後に続いた。
「こら、なんで逃げる?」
妃奈子は署からさほども離れないうちに幸に捕まった。妃奈子は身を捩りながら、ごめんなさいと何度も繰り返す。
「何を謝るんだ?」
「お願い、あたしに優しくしないで」
「隠蔽罪のことか? あれなら…」
妃奈子の両腕を掴んで幸は落ち着かせる。
「違う、そんなんじゃない」
「じゃあ、何が」
「あたしがお兄ちゃんを殺したの」
妃奈子は俯いて叫んだ。荒い呼吸をしながら、再び妃奈子は声を荒げた。
「あたしが庇おうとしたのはお兄ちゃんじゃなかった」
「…何?」
妃奈子は顔を上げると、眉間にしわを寄せる幸の目を見た。
「あたしは、お兄ちゃんからあの人を庇おうとしたの」
幸の手から力が抜けた。
「思い出したのか?」
「お兄ちゃんを見殺しにしたのよ」
幸の手からするりと腕を引き抜くと妃奈子は再び走り出した。幸は慌てて後を追う。
ほどなくして、また腕を取られて後方に引っぱられた妃奈子は足をもつれさせて幸の方へ倒れ込んだ。
「だからなのか?」
幸が低い声で呟いた。
「好きだったから。だから、はなっから解決させる気がないって、そう言うことだったのか?」
「分かんない、分かんないよそんなの」
記憶が抜け落ちていても、妃奈子の意識はそこまでして史信を庇おうとしていたのだろうか。幸は暴れる妃奈子を背後から抱え込むようにして押さえる。
「好きになるって、何?」
幸の腕の中で妃奈子は身を捩りながら言った。
「人を好きになることの結果がこういうことなら、好きになったりしなかった」
「結果が分かってりゃ、諦められたのか?」
妃奈子の動きが止まった。
「全部あたしのせいなの」
妃奈子は地面を見つめたまま呟いた。
「あたしが殺されてればよかったんだ」
幸は息を飲んだ。妃奈子を苦しめている何かから解放しようとしたつもりだったのに、結局はさらに苦しめさせることにしかならないのだろうか? 悪夢は悪夢として、これからも妃奈子を支配し続ける。妃奈子は最初から分かっていたのだろうか。だから終わらなくてもいいと、そう言ったのだろうか。そんな気がして幸は途方に暮れた。途方に暮れながら、それでも何か糸口はないかと幸は必死だった。
「なあ、思い出したのなら、最初から教えて」
背後から幸は妃奈子に優しく諭すように訊く。妃奈子は幸の腕を掴んだまま、固まったように動かなかった。
「アンタのせいだって俺が納得できるように、ちゃんと説明してみて」
耳元で囁くように言われて妃奈子は混乱した。その声は妃奈子の頭の中で甘く響く。幸の声は妃奈子の中に沸き起こる不安を溶かす、呪文か何かのようだった。このまま幸に何もかも委ねられたらどんなに楽だろう。だけどそれはきっと許されない、妃奈子はそう思った。
こんな最中なのに、幸に抱きしめられてどうにかなってしまいそうな自分に腹が立ってしょうがなかった。次第に顔が火照ってくるのを妃奈子は感じた。この火照りは炎天下を走ったせいなどではない。その方がまだ救われたのにと妃奈子は唇を噛んだ。
やっぱりあたしは保苑さんが好きだ。
加東に言われたからではない。幸の気を引こうとか、振り向いて貰おうとか、そんなことを考える以前のシンプルな気持ちが一言、「好き」と言う形で凝縮されていた。
幸への気持ちを振り払うように妃奈子は首を振った。その動作を拒絶と受け取って、幸は溜息をついた。
「なあ、もうどうだっていいよ。終わりにしよう。このまま一生そうやってくつもりか?」
「あたしは、罪人なんだよ」
妃奈子はそれだけ答えると、口を閉ざした。
幸は鞠子の言葉を思い出した。記憶がないまま漠然と居座る罪の意識。それは塙志よりも史信を選んだことだったのか。
どこが子供だって?
幸は妃奈子をそう決めつけていた自分を心の中で笑った。
追いついた加東はそのやりとりをじっと見つめていた。どうして幸はこんなに妃奈子にこだわるのか、未だに分からないままだったが、少なくとも妃奈子の容姿に惹かれたというような浮ついた理由ではないだろうと思っていた。だが目の前の光景を見て加東はその想定が揺らいでいくのを感じた。
ようやく声をかけると二人の体がビクリ動く。
「署に戻ろう」
幸は妃奈子から体を離す。手を引くと妃奈子は大人しく従った。二人の間にただならぬ雰囲気を感じて、加東の心に嫉妬のような感情が沸き起こった。
署に戻ってから、幸は蓼倉と共に警視庁へ向かった。
妃奈子は丸山に思い出したことをすべて話した。
その内容は、ショッキングなものだったが史信を被疑者と確定するにはまだ決定的な物が足りなかった。
丸山は溜息をついた。
「計画性も何もないのに、なんだってああもうまい具合にすり抜けちまうんだろうな」
「あたしのせい?」
「実際に殺したのはお嬢ちゃんじゃないだろう? それにお嬢ちゃんだって蹴られ所が悪けりゃ死んでたんだ」
「その方が事件はもっと早く解決してたのかな」
どこか宙を見つめながら妃奈子は呟いた。
「バカなこと言っちゃいけないよ」
丸山は調書を取っていたペンをテーブルの上に転がした。
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