----- 甘い復讐
>>> 3
「及川っ、数学の宿題やった?」
席に着くなり斜め後ろから声がする。妃奈子は眉間にしわを寄せた。振り返る前から声の主は分かっている。夏以来、妃奈子にご執心な咲野佳寿(さくや かず)である。
妃奈子は俯いて、胸元に垂れる三つ編みの毛先を見つめ、しばらく返答に迷った末に「やった」と小さな声で答えた。そしてすぐさま彼から逃れようと席を立ちかける。妃奈子が目の端で捕らえた佳寿の顔は満面の笑みを浮かべていた。
「マジ? ノート見せて。俺当たってるのに忘れちゃってさー」
「咲野、自分でやれ」
佳寿が立ち上がりかけたその時、甲田亜美(こうだ あみ)が冷ややかな顔で割り込んだ。
「な、甲田ジャマ。俺は及川と話してんの…って、ねぇ、アレー?」
佳寿が言い返す間に、亜美はさっさと妃奈子の華奢な腕を取って窓際で群れている女子の輪の中へ向かっていく。
「お前も毎日頑張るよな」
端で見ていた男子生徒が、机に頬杖をついて感心したように言った。
「ったりめーだろ。俺は悟ったね。学校という名の聖地の前では、いくらホソノといえども及川に手は出せないってことにな!」
佳寿は天を仰ぎ見るようにしながらガッツポーズを作った。一瞬、『聖地って何』というツッコミが一同の頭の中に駆けめぐったが、佳寿相手に些細なことまでいちいち突っ込んでいてはキリがない。
「ホソノって、あのホソノ? なんで及川と?」
「あの人警察だろ、もう関係ないじゃん」
「それはソレ、いろいろあるんだよ」
「ふーん……」
妃奈子に関して余計なことを言えば、過去の醜態を妃奈子にばらすと佐久間から脅されているので、佳寿はごにょごにょと口を濁した。
「ていうか、咲野、数学当たってんだろ」
「あ、そうだった。ノート見せて」
「バーカ、俺がやってるわけないだろ」
「素直に自分でやれよ」
「うそっ、ありえねー。誰かやってないの?!」
佳寿は自分のノートを手に、机の回りを徘徊し始めた。
そんな喧騒をよそに、妃奈子は窓の外を見ながら深い溜息をついていた。黒い瞳には、毎日続く佳寿のアタックに対する困惑と、疲労の色が浮かんでいる。
学校まで歩いて行ける距離の佐久間の家に下宿するようになってから、朝のラッシュで貧血を起こして倒れるということは無くなり、以前に比べれば顔色も良く、健康的になりつつある妃奈子だが、それでも朝一番の佳寿のテンションにはついていけない。
亜美の助け船がなければ、午後にある体育の時間まで温存させておかなければならない気力、体力が、あっという間に奪われてしまうところだった。
「妃奈子に手を出そうなんて百万年早いよ」
亜美が呆れながら呟く。
「でも咲野ってけっこう良くない?」
「えー。じゃ妃奈子から引き離してあげなよ」
「彼氏にするのはイヤ」
何ソレ、と一同に笑いがこぼれる。
「ていうか、あいつ隣のクラスの土師駿二(はせ しゅんじ)とできてるって」
「うそ」
「アイツらいっつも一緒じゃん?」
「うわー、キモッ」
「わりと土師タイプだったのになー」
「マジで? アイツほとんど喋んないし暗いじゃん」
「暗くてもうるさいのよりマシ」
でもさ、と亜美が妃奈子をつついてニヤッと笑う。
「妃奈子は保苑先生だもんね」
途端に妃奈子の顔が赤くなった。
「だから、保苑さんは先生じゃないよ」
「あー、ハイハイ」
「男嫌いでも保苑先生は例外かぁ。まあ、無理もないよね。あのカッコよさって異常」
「だよね、数学のサトウと同い年とは思えないし。年上興味ないけど、あたしもイイなって思った」
「妃奈子ガンバレ」
「ち、違うよ、そんなんじゃないってば」
みんなから肩をこづかれる中、妃奈子は反論する。
――そんなんじゃない。
じゃあどんなのだと言われると返答に困るが、妃奈子が幸に寄せる気持ちと、亜美達が好きな男の子に寄せる気持ちとが微妙に違うことを妃奈子は何となく悟っていた。
幸のことは好きだ。でも、それがイコール特別な関係になりたいことかというと、そうではない。傍にいて話したり、仕草を見つめていたり、その程度でいい。それ以上の、例えばキスをしたりだのという行為には抵抗があった。
妃奈子が恋に対して深く踏み込めないのは、兄を初恋の相手に殺されたという一件がまだ強く根付いているからだ。どんなに打ち消そうとしても胸の奥底の声が、誰かを好きになるということは大切な人を失うことだと、まるで生き物のようにふとした隙をついて妃奈子に囁いてくる。
そもそも兄の死以降、妃奈子は男性恐怖症に陥っていた。学校では周りに気づかせまいと殊勝に振る舞っていることが男嫌いへと転じているのだが、好意を持っている幸に対してでさえ構えてしまうことがあるのだ。
そして幸はそんな妃奈子を見抜いている。
だからこそ、咲野のようにずかずかと必要以上に踏み込まず、妃奈子が心地よいと思う距離を保ってくれる幸は、自分から近寄って行きたくなる相手だった。
しかし、妃奈子がささやかな想いを寄せるものの、幸は社会人、しかも刑事だ。どんなに亜美たちから頑張れと励まされようと、そう簡単には会えない。教えて貰った携帯の番号も、夏休みの時に掛けた一回きりのまま、登録されているだけだ。
それでも佐久間が気を利かせて携帯のアドレスを教えてくれ、メールを送ってみると、『なんでわかった』と返事が返ってきたことがあった。何でも良いから繋がりが欲しくて、一方的にとりとめのない内容のメールを送り続けてみたが、滅多に来ない返事も『いまはしごとちゅう』『ねむい』など、およそ関心を持たれてなさそうなものばかりだった。
そういったやりとりも、ある日突然に送信できなくなって終わってしまった。おそらくアドレスでも変更したのだろうが、それを知らせるメールは来なかった。
鬱陶しく思われたかな。
妃奈子は再び窓の外を見ながら考えた。
やっぱりちゃんと彼女がいたりして、あたしみたいなコドモを相手してる暇はないのかな。
そもそも、幸は妃奈子など事件の被害者としてしか見ていないのかもしれない。事件が片付いてしまえば、関わりになることのない相手だと思っているのかもしれない。
際限なく湧いてくるネガティブな想像に何度目かの溜息をついたとき、始業を知らせるチャイムが鳴った。
実は妃奈子が幸のことを考えて憂いを含んだ表情で溜息をつく姿に、かなりの数の男子生徒が心を奪われているのだが、当の本人はそんなことなど知る由もない。
もとより男嫌いと言われている妃奈子だ。滅多なことでは好意的な目を向けるはずがない。それを承知で、ばっさり斬られるために真っ向から向かっているとしか思えない行動をとる男子生徒は佳寿くらいしかいなかった。
それでも、野良猫を手懐けさせるようにいつか自分に振り向かせたいと密かに征服欲をたぎらせている者、自分へ向けられる冷ややかな目にマゾヒスティックな快感を覚えている者と、各々の中で妃奈子への妄想は風船のように日々膨れ上がっているのだった。
妃奈子が席に向かうと、佳寿はノートを広げていた。ちらりと見ると、当てがなかったのかノートには問いの数式が書かれているだけで真っ白のままだ。シャーペンを握りしめて、うーと小さく唸り声をあげている。
その姿に、ノートを見せてあげてもいいかな、と妃奈子は考えた。
亜美達が聞いたら目を丸くしそうな話だが、毎日のように繰り広げられる熱烈なアピールには辟易しているものの、あのハイテンションに付いていけないだけで、次第に佳寿に対しては恐怖心が芽生えなくなってきているのだ。妃奈子自身も不思議に思っているが、だからといって男性に対しての恐怖心が消え去ったわけではない。
佳寿の子供っぽい言動が功を奏しているためで、つまりは男として見られていないという、佳寿にとっては何とも悲しい進展である。
「おいかわ……お願いノート見せて……。サトウに殺される」
朝のショートホームルームの間も、斜め後ろから悲痛な声が聞こえる。妃奈子がノートを出しかけたとき、さらに声が続いた。
「お礼に昼飯奢るから、一緒に食堂で食べよ……」
妃奈子は出しかけたノートを再び机の奥に押しやった。ノートを見せるくらいならどうってことはないが、お礼と言われても、佳寿と一緒に昼ご飯を食べるのはまっぴらゴメンだ。
妃奈子が溜息をついたとき、チャイムと同時に、事前に当てている問題に答えられない生徒には容赦のない事で恐れられている、数学教師の佐藤が入ってきた。
妃奈子の背後で再び、マジでぇーと嘆く佳寿の声が聞こえた。
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