----- 甘い復讐
>>> 2
空がすうっと高くなり、青さが眩しくなってきた頃。
東京23区内にある某警察署は朝からちょっとした騒ぎになっていた。
だが、肝心の人物はその事をまだ知らない。
保苑幸(ほその ゆき)は地下鉄の階段を小気味好く駆け上がって地上に出ると、はあっと息をついた。朝晩がようやく涼しくなってきて、空気がひんやりと肌にまとわりついてくる感じが心地よい。
ポケットに手を突っ込み、ナイロン製のショルダーバッグを斜め掛けして歩く様はどことなく高校生のようにも見える。
彼は思い立ったようにタバコを取り出して火を付けた。頑なにソフトケースにこだわっているいつものセブンスターだ。
かなりの地域で路上喫煙が制限され始め、ヘビースモーカーの幸は随分と肩身の狭い思いをしているが、この区ではまだ自由に吸える。それだけにタバコの美味さはひとしおで、深々と吸い込むと満足げに煙を吐き出した。
道を行く制服姿の女子学生やOL風の格好をした女性達が、そんな彼をちらりと見ながら頬を染めて通り過ぎて行くが、幸は気にも留めていない。むしろ気がつかないと言った方が正しいかもしれない。
空気の流れに踊る茶色っぽいクセのある髪の毛、長身を隠すように少し背を丸め、長い手足を持て余すような歩き方が伸び盛りの少年を思わせる。端正な顔の中心にある眼光は鳶色をしているが鋭く、一文字に結んだ口元はすっきりと締まっている。全てのパーツが収まるべき場所にきちんと収まっている、そんな印象を受ける。無意識のうちに人を惹きつけている彼は、軽快な足取りで新しい職場に向かう。
玄関口に立つ、警戒当番の私服警官に向かって幸は挨拶をした。長い木棒に気怠げに凭れていた彼はあっと顔を強張らせる。
それには構わず、幸は二重になった自動ドアを潜って行く。何度も訪れたことがあるので、迷うことなく真っ直ぐ刑事課のあるフロアに向かった。
ドアを開けて中へ一歩足を踏み込むと、ざわついていた室内がぴたりと静まった。
「……どうも、保苑です。お世話になります」
沈黙に戸惑いながら、幸は軽く頭を下げるとぐるりと見渡した。取り上げられた雑誌を背伸びして取り返そうとしていた花垣哲平(はながき てっぺい)と、それをかわす佐久間鹿恵(さくま かえ)の姿が見えた。彼らもそのままの姿勢でぴたりと止まったまま、幸の方を向いている。
自分に向けられた、好奇と穿さくが入り交じったような何とも言いようのない視線を避けつつ、幸はにっと笑ってみせた。二十七年間生きてきて、この視線を向けられずに過ごしたことはない。まともに受けても何の得にもならず、ならば笑ってやり過ごすしかないことを幸はこれまでに学んだ。
刑事課の課長が咳払いをして幸に手招きをする。その咳払いで、魔法が溶けたかのように再び室内に喧騒が戻った。
課長の前まで来ると幸は再び、どうも、と軽く頭を下げた。課長は机に肘をついて顔の前で手を組み、複雑そうな顔をして幸を見上げる。
「まさか君が希望したんじゃないよねぇ?」
「そんな、偶然ですよ。…………多分」
引きつり笑いを浮かべながら幸は答えた。厳格そうな課長は顔をしかめた。
「どうしてうちに回されてくるんだ? あのままあそこにいればいいじゃないか。どうせ期限付きなんだろう?」
たらい回しをされている身の自分に言われても、と幸は内心思いながら、そうですねぇと相づちを打つ。
「例の件は蓼倉(たでくら)くんの直下だったからこの程度で済んでるんだよ。ここじゃそうはいかないからね。お願いだから面倒は起こさないでくれよ」
「はあ……」
「今年、息子が大学受験なんだ」
ぼそりと課長は呟いた。
幸が夏にケリをつけようとしたとある事件は、結局、未解決事件として何事もなかったかのように書類一式は封印された。それに付随して幸は懲戒停職のあと、某所轄署への派遣を言い渡されているのだが、まさか点々と各署を回るとは幸も思ってもいなかった。蓼倉の中で一体どういう計画があるのか、おそらく本庁の連中も把握している人間はあまりいないのではないかと一部では囁かれている。
そんなわけで、今度、幸が何かトラブルを起こしたら課長も処罰の対象となりかねない。ヘタをすると責任を問われ、課長の座も危うくなる。減俸もあり得るだろう。そうなれば家計に大きく響く。何がなんでもこのポジションから落ちるわけにはいかないぞという、執念のようなものが課長から見えて、幸は困惑した笑みを浮かべた。
「まったく、蓼倉くんを始め、上の考えることは良く分からんよ」
「あの人の考えてることは上の連中でも分かんないですから」
課長はちらりと幸を見上げた。
「君もああいう人間に好かれるなんてツイてないねぇ」
ははは、と幸は乾いた笑いを上げると、また一礼をしてデスクから離れた。
先ほど何やらやり合っていた花垣と佐久間は、まだ雑誌を巡って小競り合いを続けている。幸は佐久間が天井高く掲げている雑誌をひょいと取り上げた。
「あっ」
佐久間が振り返り、花垣があたふたと幸に近付こうとする。
「『街で見かけた女子高生選りすぐり50人』……」
開いたページのタイトルを読み上げると、幸は眉間にしわを寄せた。
「いい? 花垣君。あなたの趣味をとやかくいう気はないけど、職場で読むのはやめなさいよ」
「分かりましたから、返して下さいっ!」
幸に近づけまいと仁王立ちして通路を塞ぐ佐久間に、花垣は半ベソをかきながら声を上げる。
「お、この子可愛い」
佐久間の背後でぼそりと声が聞こえて、二人はえっと幸の方を向いた。
その視線に気付いた幸は、何? と顔を上げる。
「……何だかばかばかしくなってきたわ」
ムキになってまで成そうとしていたことがいかに無意味だったかを思い知らされ、肩を落とすと佐久間は自分のデスクについた。
花垣は幸から奪うようにして雑誌を取り戻すと、胸に抱いて安堵の息を吐く。
「今度見かけたらその場で燃やすわよ」
佐久間は花垣を睨みつけた。そのすっと流れるような目で見つめられ、濡れたように潤う唇で名前を呼ばれ、紅いマニキュアの光る指で胸ぐらを掴まれてもけろりとしているのは花垣くらいだろう。オフショルダーのカットソー、センタープレスのパンツに身を包んだ上背は170センチはある。その足元のパンプスのヒールは10センチ。その出で立ちは職場の男性陣だけでなく、時には犯人でさえどぎまぎさせるほどで、艶のある姿はどう見ても強行犯係に属する刑事には見えない。
一方の花垣はというと、まるで中学生がスーツを着ているようにしか見えない点で、やはり佐久間と同様、刑事には見えない。小動物のようにちょこまかと動き、可愛らしい顔立ちをしているが、頭の中身は佐久間曰く、グラビアアイドルにまみれて腐りきっている。案の定、顔を緩ませきって先ほどの雑誌を眺め、「保苑さん、可愛いのってどの子ですか」とへらへらとした笑みを幸に向けてきた。
佐久間は眉間にしわを寄せて花垣を睨みつけたかと思うと、くるりと幸の方へ向き直った。
「保苑さんお久しぶりです」
「久しぶり。いろんな意味で相変わらずだな」
幸は二人を交互に見て、くすりと笑った。
「どうしてウチに? 捜査一課に戻ったんじゃないんですか?」
「俺もそうだと思ってた」
そう言いながら、手近の椅子に座ると幸は溜息をついた。
「よりによってここだなんて、よっぽどお前らと縁があるのね」
「お陰で交通課を始め、朝からみんな浮き足立ってますよ。しかも捜査一課として一時的に来てるんじゃないんですよね?」
「そうみたいねぇ……」
「え、じゃ、保苑さんも僕らと一緒に傷害とか強盗とか追っかけちゃうわけですか?」
「『とか』って言うな」
幸はタバコに火を付けると、目を細めて花垣を睨む。
「や、ですけど……」
花垣は困惑顔で幸を見るが、当の本人は飄々とタバコを吹かしている。
無理もない。花垣が出逢った時には、幸は警視庁捜査一課強行犯係にいた。ここに所属しているだけでエリートだと言われるのに、幸は期待のホープとまで賞されていたのである。
それが何の因果か、自分の勤める署の刑事課に転がりこんできたのだ。警察庁に所属する、いわゆるキャリアが見習いという名目で、現場の上っ面を見るために所轄署に配属されてくるのとは訳が違う。
口には出さないものの、皆これがどういう状況か分かっていた。
「左遷は左遷、しょうがないでしょ。蓼倉さんとの約束だったんだからさ」
その禁句をあっさりと幸は口にした。
「保苑さぁん……」
「あのね、アンタらにそんな顔されちゃ、こっちもやりにくいっつの」
スミマセン、と花垣がしょぼくれた。
「懲戒停職くらってM署に期限付きで派遣って話は聞きましたけど、そこでも何かあったんですか?」
「まさか、おとなしーくしてましたよ」
疑いの目で二人が見つめるのも構わず、幸は灰皿にタバコを押しつけながら、さらに続ける。
「『派遣』っていうより、表向きは『研修』になってるけどな。まだ期限内だから幾つか転々とすんのかも」
「上からは何て言われてるんです? 蓼倉さんは?」
「あの人が素直に教えてくれると思う?」
佐久間と花垣は、にやにやしながら扇子を仰ぐ蓼倉の顔を思い浮かべた。機密保持の為に部下に詳細を教えないというのなら分かるが、彼の場合、ただ煙に巻きたいからという理由で教えなかったりするのだからタチが悪い。
「ま、というわけでよろしくね」
幸は渋い顔をする二人に向かって微笑んだ。
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