----- ラブリー >>> 20 心音は人が一番リラックスする音だと何かで読んだことがある。 美哉の鼓動の速さはネズミと同じくらい早いんじゃないかと思っていた。でも実際に耳を傾けると俺と変わらなかった。俺の時間も美哉の時間も、同じ速さで流れていってるってことだ。何だかほっとした。 出来ることなら、このままどこか隔絶された世界にでも飛んでいって、美哉の心臓の音を死ぬまで聴いていたかった。 そうじゃなかったら、腹の中に逆戻りして全部リセットしてやり直しなんてのもいい。 ごく普通で良かったんだけど。 遠距離通勤でくたびれてるサラリーマンの父親と、スーパーでパートしてる母親と、そうだな、兄弟なんかがいてもいい。まあそこそこの成績で、バスケ部の練習きついからホントはばっくれたいけど、大学は行っとけって親がウルサイから塾にも行かなきゃなんない。で、表向きは嫌そうにしてるけど、塾でけっこう気になる子がいたりして、実はまんざらでもなかったり。そんなので良かったのに。 どこでどう間違ったんだろう? アルバムも、勢いに任せてさらけ出してしまえば、なんてことのない過去のオンパレードだった。 あの話が真実なのだろうと分かってはいた。でも心の中のどこかでは、なぜだか良く分からないけれど、嘘であって欲しいと思っていた。アルバムの中にあの人が混じっていなければ、という僅かな期待も見事にうち砕かれた。あれは本当だったのだと、写真を目の前にして、改めて俺は愕然とした。 結局、俺は出来たことも偶然なら、生まれたことも偶然だったってわけだ。 美哉が帰った後、親父は俺の方に近付いてきた。手を腰に当てて、惨状を見渡すと、苦笑しながら親父は言った。 「やっと虫干ししたんだ」 テーブルの上に散らばっているアルバムに目を落として、それから親父を睨むように見上げた。 「…母親はさ、人のモノを平気でかっさらうような人だったの?」 「それは君が一番良く知ってるでしょうに」 親父は俺が握りつぶした写真を拾い上げた。 「知るには短すぎた」 「そうやって見事に玉砕してるところなんか、そっくりだよ」 写真を広げると、ああ思い出した、と親父は呟いた。 「モリタって名字だったんだ、この人」 「やっぱ知ってたんじゃねーかよ」 「これ見て思い出したの!」 親父は溜息をつくと、冷蔵庫の方へ向かう。6缶パックのビールを片手に戻ってきた。 「そんで? 何言われてきたの」 俺は手渡されたビールのプルトップをのろのろと引き上げて、中身を喉に流し込んだ。 また思い出さなきゃならないのにはひどくうんざりさせられた。それでも不思議なことに、いざ話してみると、聞いていたときよりはさほど怒りはこみ上げてこなかった。 「許さない、か。そりゃ驚いたろうな」 黙って話を聞いていた親父はやっと口を開いた。 「言ったことを取り消す気はないよ」 そういう意味じゃなくて、と親父は笑う。 「純が病院に運ばれた後、あの人が様子を見に来たんだけど、龍司さんもそう言ったんだ。…最近、そういうの多くてさぁ。不思議だよね」 「そういうのって?」 「君、時々あの二人と同じこと言うんだよ」 そんなことまで遺伝子に組み込まれてるわけじゃあるまいし。そう言われても、と困惑してビールを飲む。頭の中で再現フィルムを回してみると、あの人の悲痛な顔が映った。だからあんなに驚いていたのか。 「あの人に俺は殺されかけたけど、それ以前に、そういう原因を作ったのが母親なら自業自得なのかもなとか、さっきまでそういうことばっか考えてた」 「純は相手をころころ変えてはいたけど、人のモノに手を出したことは一度もないよ」 俺の不穏な考えを切り捨てるように親父は言った。 「あいつはさ、不器用な奴だったけど、卑怯なことはしないから」 「じゃあ、なんで泥棒猫呼ばわりされなきゃなんないんだ」 「純はあの人から龍司さんを奪ったんじゃないよ。これは、あの人が病室から出ていった後の話だけど。目を覚まして、やっぱり龍司さんに『奪ってごめんなさい』って言った純に、手を握ってお互い見つめ合いながら、龍司さんなんて言ったと思う?『ほんと罪作りだよね、僕の心を奪っちゃうなんて』って」 なんだか恋愛の国の映画で繰り広げられるようなセリフに意識が遠のきかける。 「…ああ、ほら、そうやって思い切り引いてるけど、それを目の前で聞かされた俺の身にもなってみろっての」 身の毛もよだつようなベタ甘なワンシーンが頭に甦ったのか、親父までうんざりしたような顔で体を反らせた。最強のバカップルぶりを改めて実感して、俺と親父はお互い顔を見合わせた後、やれやれと肩を落とした。 「馴れ初めは良く知らないけど、純は人を愛することをロクに知らない奴だったし、龍司さんの方が先に好きになったんじゃないかと思うよ」 だから、純が横恋慕して奪ったわけじゃないはず、と親父は2本目のビールを開ける。 アルコールの回り始めた頭でぼんやりと、昔を思い出そうとする。どっちの方が相手を好きって気持ちが強かったか。いつも父親にへばりついていたような気がするから、見た目では母親の方が勝っていたような気がする。結婚してしまえばそういう気持ちは逆転してしまうんだろうか。 人を愛する気持ちも知らないような人を選ぶなんて、父親も相当変わってる。どこが良かったんだろう? 単に面食いな人だったんだろうか? そういう風変わりな二人の純粋培養なんだ。俺もまともじゃなくて当然なのかも知れない。 「龍司さんはさ、気丈な振りして影で泣く、純の本当の姿に惚れた人だから。純もそういう自分をわかってもらえて、さらけ出せる唯一の相手が龍司さんだったから。俺は、あの二人が一緒になって良かったと思うよ」 え? と親父の方を見ると、親父はにやりと笑った。 「君も美哉ちゃんは大事にしないとね」 一瞬、呆気にとられてから、テーブルの上の写真に目を移す。見るからにごちそうさま、と言いたくなるほど極甘の幸せそうな両親。 なるほど。 俺も、そう思う。 顔が紅潮していく感じがしたけど、きっとアルコールのせいで見た目にはわからなかっただろう。 一緒にいたい気持ちが昇格する瞬間というのは、こんな感じなのかもしれない。 きっと有馬由宇香が俺に付きまとってくることもないだろうと思っていた。 けど、ひどく楽観視していたのだと、目の前で微笑む人を見て俺は思い知った。 「何も知らないのか」 「何のこと?」 あの人とだぶって見えることによる、憐憫にも似た気持ちと、やはり怒りの気持ちと。俺は隠すことが出来なかった。 「君の母親は殺人未遂者だ」 「だから?」 それがどうしたのだと言うように、彼女は俺の前に立ちふさがる。 「私には関係ない。あなたがこうして生きているのが私の母親によるものなら、私が生まれてこうしてあなたの前にいるのもまた同じことよ。ある意味、運命よね」 「随分と都合のいい運命だね」 俺は振りきるように歩き出した。すぐ後を彼女がついてくる。 「そうよ、だから、つき合って」 「無理」 「彼女がいたって構わないわよ、障害があった方が燃えるもの」 俺は鼻で笑った。 「いつか俺が振り向く日がくるって?」 「いつかなんて、そんな希望的観測で物事を測る主義じゃないの」 「あっそう」 彼女は突然腕を掴むと、俺をその場に引き留めた。 「今すぐ、知ればすぐに分かるわ」 妖艶な笑みを浮かべて俺を見上げる。 「嫌いじゃなければ、気持ちなんてすぐ変わるものよ」 「じゃあ、嫌いだ」 嘘ばっかり、とまた笑う。 「どうしても好きか嫌いかで分類しなきゃなんないのなら、嫌いの方に放り込んでやるよ。だいたい始めから、そういう感情すら湧きもしなかったんだ」 ようやく眉をひそめて有馬由宇香は腕から手を離した。引っぱられて乱れたシャツを直しながら、俺はさらに続けた。 「気にかけたこともないし、念頭にもない、眼中にもない。興味もないし、無関心、無感覚、無意味、問題外、はっきり言ってどうでもいいよ」 ぱちんと高い音が俺の頬で打ち鳴らされた。痛みよりも、喜びの方が大きくて俺は笑った。 「上等、これを待ってたんだ」 「マゾはホントね」 それでもまだ強がろうとする彼女を、なぜか可哀相に思った。 「二度と俺に近付かないでくれるかな。迷惑だから」 地面に向かって投げつけるように言うと、俺は彼女に背を向けて歩き出す。いつの間にか、遠巻きにギャラリーが出来ていた。その中に田仲がいた。 俺を責めるような目つきで近寄って来る。 「たかがごめんなさい言うだけで、あんなボロクソに言わんでもええじゃんか」 「あれくらい言ってやらなきゃ、効果ないだろ」 「何の効果や?」 怒りをむき出しにして田仲は食ってかかる。それを冷静に受けながら、こいつならきっと大丈夫、と俺は確信していた。そう、こいつも俺を叱り飛ばしてくれる。俺みたいな奴よりずっといいはずだ。 「ばーか、俺に構ってないで早くあっちに行けよ。わざわざボロクソに振ってやったんだ。慰め役がいるだろ」 そう言いながらにやりと笑うと、田仲はぱっと頬を赤らめた。 「あ、あほかオマエは…、こんなんで貸し作ったって思うなや!」 「別に見返りなんて期待してやしないよ」 田仲は俺の肩を小突くと有馬由宇香の方へ走っていった。 Copyright (C) 2003 Mutsu Kisaka All Rights Reserved. |