-----  ラブリー


   >>> 21



 駅前の商店街で、あたしは思わず立ち止まってしまった。
「…今なんて言った?」
 携帯電話の向こうでまた同じ言葉が繰り返される。
『俺ってば、愛のキューピッドかも』
 それって、三角の槍で脅したり、角が生えてたり、黒い羽根で飛びながら背後から蹴りをかましたり、無表情で赤い糸をハサミでちょん切ったりするのかな?
『お前、俺を何だと思ってるんだ』
 いやあ…、だって、ねえ?
「どういう風の吹き回し? 明日辺り、日本が沈没しちゃいそうで怖いんだけど」
『何とでも言えよ。言いたい放題言って有馬由宇香を振った後で、気分がいいから許してやる』
「…納得」
 タダで椿がそういうことするとは思えないもんね。
 ん?
「誰だって?」
『有馬由宇香』
「なんで?」
 なんでって、と椿の呆れたような声がした。電波が弱くなってきたのか、何か言ってるみたいだけど、良く聞こえない。
『とにかく、後で…』
 それだけ聞こえて、ぷつっと電話は切れた。
 携帯の画面を見つめた後、どうしようかなと考えて、目に留まった本屋に入る。雑誌を何冊かぱらぱらめくってみるけど、どうも腑に落ちなくてうわの空になってしまう。昨日、あたしが帰った後、一体椿とおじさんは何を話したんだろう? 今日の椿に一体何があったんだろう? しかもあの子を振ったって、どういうこと?
 突然携帯が鳴り出してあたしは手にしていた雑誌を落としそうになった。お店のおじさんがちらりとこちらを見て、あたしは慌てて店を出た。
『今駅に着いたんだけど、もう家に…あ』
 駅の方を向いたときに、回りにいる人たちより頭ひとつ飛び出た椿がこっちに向かって歩いてくるのが見えた。携帯をぱちんと折り畳んで小走りに椿がやって来る。
「なんだ、わざわざ待ってたの」
「そういうつもりじゃなかったんだけど」
 そう言う椿はいつもと変わらない。家に着くと、椿はくすくすと笑い出した。
 あたしは眉をひそめる。
「ねえ、さっきのは何だったの?」
 え? と椿はキッチンへ向かう。
「何って…そのままの意味だよ」
 有馬由宇香を振った、と椿は楽しそうに言った。
「どうして?」
「…本気で言ってんの?」
 椿は冷たいお茶の入ったグラスを手渡しながら、不満げに顔を歪めた。
「だって…」
 一口飲んで、それが椿が作ってくれる紅茶だったのだと気がついた。いつもは冷たいのも飲みたいなって言っても、めんどくさいって拒否されちゃうのに。しかも今までで一番おいしかった。ビックリして目を丸くしてると、椿はなんだよとソファの背もたれに頭を載せてこっちを見ている。
「今日は一体どうしちゃったの?」
 昨日とは打って変わって、穏やかな眼差し。そんな瞳で見つめられると挙動不審になってしまいそうになる。既にグラスをくるくる無意味に回しているのに気付いて、あたしは誤魔化すように咳払いをした。
「イライラしてた原因がさ、分かったんだ」
 え? と顔を上げると、椿はじっとあたしを見つめて、そして目を伏せた。
「こういう関係になってから、好きっていう気持ちがどんどん加速してるんだ。だけど、気持ちに行動がついていけなくて、美哉を泣かせて、また自己嫌悪に陥って。そうだな、例えて言うならてんびんに載ってるおもりが俺の方だけどんどん足されていってて、美哉の重荷になってる気分だった。でもおもりは減らせなくて足される一方で、それでイライラしてた」
「重荷になんて、なってないよ」
「嘘つくなよ。前に訊いたら、平気って言ってて死にそうな顔してたクセに」 
 そんなこといつ訊かれたっけ、と眉間にしわを寄せていたら、一方通行でもいいのかって訊いたろ、と椿が目を細めた。
「あ…、あれ、そういう意味だったの?」
「ほかにどういう意味があるんだよ」
「誰かほかに好きな人が出来たのかと思ってた」
 椿はなんでそうなるんだよ、と思い切り呆れ顔になった。
「だって、あの人いつも待ち伏せしてたでしょ、だから…」
「俺が浮気に走ったって?」
 途端にフーン、と冷ややかな視線がぶつけられる。うう、そんな怖い顔しないでよ。あの時は不安で仕方なかったんだもん。
「そっか、そういうことか。当たり前だよな。全然吐き出してなかったしな」
 肩をすくめて椿を見上げてると、ふっと体の力が抜けてしまったように、椿はぺとりとソファに顔を押しつけた。
「あのさ、有馬由宇香にいろいろ言われてた時、俺、美哉にめちゃめちゃ救われてたんだけど」
「ほんと?」
「うん。なんて言うか、あの人すごい疲れるんだ。だからあっちに気持ちが傾くなんてことはあり得ないね」
 そう言うと椿はあたしが手にしていたグラスを取り上げてテーブルの上に置いた。
「前に、好きっていうような枠には収まんないって言ったけど、今の気持ちを表すとしたら、それはやっぱり好きって言葉しか思い浮かばない」
 椿がこっちに少し寄った。
「好きだから、美哉とずっと一緒にいたい」
 心臓が体から飛び出していきそうになる。椿が「好き」って言うときの顔は能面みたいなままだったりしてって園子が言ってたけど、椿の顔は今まで見たことないくらいに優しげで、あたしは溶かされてしまいそうだった。
「あたし…、あたしも。椿が好き」
 椿の胸元のシャツを掴んだ。
「あのね、ホントは怖かったの。椿はどんどんカッコよくなっていくのに、あたしは追いつけないで、傍にいる資格がないのかもって…」
「資格なんかいらない。なんでって問いつめたけど、よく考えたら、美哉が俺のことをどう思ってようが、それで俺の気持ちは変わりはしないんだ」
 椿はまたこてんとソファに頭を載せた。
「それに…、変わっていってるのは美哉も同じだろ」
 ちょっぴり拗ねたようなへの字口。眩しそうに目を細めて、椿はその紅いのとか、と呟いた。
「それから、なんだかいい匂いもするし」
 あたしは思わず耳の後ろを手で押さえた。何も言わないから、椿はこういうのって鈍感なんだとばかり思ってた。 
「ま、惑わされる?」
「うん」
 椿が髪をかき上げつつ頭を掻くのを見つめる。唇は紅くないし、いい匂いも身にまとってない。何もしなくても椿はあたしを惑わす。
「ねえ、どうして?」
 なにがと椿は頭をほんの少し上げた。
「どうして女の人の唇と雌猿のお尻は紅いのかな」
「ああ、その話? つまり、雌猿の尻が紅くなるのは発情して準備オッケーって印なんだけど、人は二足歩行だから、準備オッケーになったとしても晒せないだろ。だから代わりに、唇をその部分に見立てて紅くしてるんだってさ」
「なにそれ」
「ホントだよ。『なぜなぜ子供大事典』に書いてあったもん」
 しれっとした顔で椿は言った。
「『なぜなぜ子供大事典』にそんなオトナなことが書いてあるわけないでしょう」
 憤慨してるとくすくすと椿が笑いだす。
 でもそういう説があるのは本当だよ、と椿は笑いながらあたしの唇に触れた。


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