----- ラブリー >>> 19 椿は家に戻るまでの間、一言も口をきかなかった。 あんなに怒っている椿を見るのは初めてだった。 店から駅までの間、ずっと手を強く握られてて、本当は痛くて離してと言いたかったけど言えなかった。言ってしまったらぷちんと音を立てて壊れてしまいそうだったから。 電車の席に着いてしばらくしてから、椿は赤く跡のついたあたしの手に気がついたのか、無言でいたわるようにそっと手を擦った。そうしてくれただけで嬉しくなってしまったから、あたしもおとなしく椿にされるがままになっていた。 一定のリズムに揺られながら、あたしはぼんやりとさっきの話を反芻していた。 多佳子さんは椿のお父さんがお母さんと出会う前につき合っていた相手なんだそうだ。 でも元々許婚がいた多佳子さんは、二十歳の誕生日に強引にその相手と婚約をさせられて、そのことを言わずに椿のお父さんを一方的に振ってしまった。 それでも想いを引きずるようにずるずると婚約期間を伸ばしていると、ある日突然と言ってもいいほど何の前触れもなく、椿のお父さんはお母さんと結婚した。 自分にとやかく言う資格なんてなにも無かったのに、出来ちゃった結婚という形でいきなり椿のお父さんを奪っていったお母さんを多佳子さんは憎んだ。 それからしばらくして、忘れ物を届けにふらりと大学に現れた椿のお母さんに遭遇した。 あからさまに幸せそうな様子で寄り添う二人に多佳子さんは嫉妬した。 そして、 たまたまトイレで二人きりになったときに、多佳子さんは椿のお父さんとの関係を話した。椿のお母さんが妊娠しなかったら、結婚していたのは自分なのだと嘘をついて。 そして、 「奪ってごめんなさい」と答えた椿のお母さんを、多佳子さんは思わず突き飛ばした。 安定期に入ってたとはいえ、固いタイルの床に尻餅をついてしまった椿のお母さんは、途端に顔色が悪くなっていった。焦点の定まらないような目で、あの人を呼んで下さいとひと言言ったんだそうだ。その言葉にさらに逆上した多佳子さんはトイレを飛び出した。 部屋にも戻らず外にいると救急車がやって来た。 その時になって、多佳子さんは自分がしでかしたことの重大さに気がついた。 自分の突き飛ばした相手が妊婦だったこと、お腹の中の子がダメになってしまったかもしれなかったこと。 幸いなことに無事だったから、今こうして椿がいるわけなんだけど、多佳子さんはその罪から逃れるように、許婚との結婚と同時にイギリスへ渡った。 子供が産まれてから、自分の仕事にあまり理解を示してくれなくなったダンナさんとの諍いが絶えなくなった頃、よく椿のお父さんのことを引き合いにして娘に愚痴をこぼしていたんだそうだ。そのことを誤解して覚えているのかもしれない、と多佳子さんは最後に呟いた。 椿があたしの手をぎゅっと掴んで、あなたは俺を殺そうとしたんですねと静かに言ったとき、あたしはどきりとした。 話を聞いている間中、俯いたままだった顔を引き上げて、青ざめる多佳子さんを見た。 運が悪ければ、この人のせいで椿はこの世にはいなかったかもしれないんだ。 そう思ったら、顔がかっと熱くなった。今度はあたしが多佳子さんを突き飛ばしてやりたい衝動に駆られた。 でも出来なかった。 家に着く頃にはもう気持ちが落ち着いたんだろうとばかり思っていたら、玄関を開けるなり荷物を放り出して椿は二階に駆け上がっていった。 荷物をリビングまで持っていくと、椿が数冊のアルバムを掴んで下りてきた。 テーブルの上に乱暴にぶちまけると、アルバムをめくっていく。 椿のお父さんとお母さんと、そして椿がいた。 唇を噛みながら、椿は蝦沢椿だった頃の自分と向かい合っていた。 懐かしむと言うよりも、その顔は怒りに満ちていた。 そして、ある写真に目を留めた。 「これが…」 振り絞るような声でそう言うと、椿はその写真を掴んだ。乾いた音を立てて、手の中で折り曲げられていく。あたしは慌てて椿の手を取った。 「待って、ダメ、待って」 それでも制しきれなくて、あたしは椿の頭を抱えるように抱きしめた。 「待って、おじさんにも、話を訊こう? ね?」 椿が掴んだその写真の脇で、自分が被写体になっていることに戸惑ったような笑みを浮かべているおじさんと椿のお母さんのツーショットがあった。 椿と同じ目。 長くてさらさらのストレートの黒髪。 いたずらっぽく微笑んでいるけれど、綺麗な人だった。 ものすごく。 その写真がだんだん歪んでぼやけていく。 お願い、と口にしたときには、涙が椿の髪を掠めて落ちた。 椿は握りしめていた手をそっと離した。 ソファに座り直して、ずっと椿を抱きしめていた。 あたしの胸に顔を埋める椿の頭をあやすように撫で続ける。 興奮して毛を逆立ててフゥフゥ唸っている猫を落ち着かせようとしているみたいな気分だった。 床に転がったままのぐしゃぐしゃになった写真には、椿のお父さんの研究仲間らしい白衣を着た数人の人たちがいて、その中には確かに多佳子さんがいた。 あの時と同じだ。 椿にはどうすることもできない理由で、椿は傷つけられた。 しかも、あの人のひと突きが椿の生死を分けていた。 「俺はあなたを許しません」 椿の口からそんな言葉が出てくるなんて思わなかった。 今まで他人に無関心だった椿にとって、誰かに判断を下すような言葉は存在しないも同然だった。自分がどういう評価を下されているのか、全てシャットアウトしてきたのと同時に、他人に対してもそういう興味は持とうとしなかった。 好きとか嫌いとか、そんな感情で人と接する態度を分けたことがない。だから当たり障りのない姿が大抵の人には無機質なアンドロイドのように映ったんだろうし、パーフェクトな人間に思われてた所以だった。 でも本当はそうじゃない。 聞き分けのいい良い子でいないと大切な人を失ってしまう、椿はそういうトラウマにずっと囚われてきただけなんだ。 線を引いていないと壊れてしまいそうなくらい脆いんだ。 椿はまるで手負いの野生動物みたいだった。滅多なことでは人に馴れることはなくて、かろうじてあたしは触れることを許されているような。 椿の髪に触れながら思った。 あたしは何があっても椿の傍から離れないでいよう。 椿の大切な人にはなれないかもしれない、それでも椿の意に反して失われていく存在にはなりたくない。これから先、またこういうことが起きても、必要以上に苦しまなくて済むように、椿を守りたい。 あたしは撫でるのをやめて椿をぎゅっと抱きしめた。 どのくらいそうしていたのか分からない。とても長い時間だったようにも思えた。 二人してとろとろと睡魔に襲われかけてきた頃、玄関の戸が開く音がした。 椿がゆっくりと体を起こす。 「ただいまー」 いつもと変わらない、のんびりとした口調のおじさんの声。 リビングのドアを開けて、おじさんはあっと息を飲んだ。 「どうした?」 「いや…」 「椿」 何でもない、と言いかけようとする椿を遮った。 「帰るね」 くしゃくしゃになった髪をそっと直してやりながらあたしは椿を見つめた。 「ちゃんと、訊いて」 椿はふてくされたように口をへの時にしていたけど、真っ黒いビー玉のような目は怖がっているように見えた。 まだドアの所に立っているおじさんとすれ違うときに、そっと囁いた。 「今日ね、盛田多佳子さんに会ったの」 えっ、と振り返るおじさんに、あたしは靴を履きながら言った。 「おじさんも、知ってる人だったよ」 椿の家を出たら、なぜだか分からないけどまた泣きそうになってしまって、あたしは家まで走って帰った。 Copyright (C) 2003 Mutsu Kisaka All Rights Reserved. |