----- ラブリー >>> 18 美哉が立ち止まらなければ、そのまま無視してやり過ごせた。 顔がよく見える距離まで来たときには彼女が何者なのかはすぐに分かった。 場所を渋谷のコーヒーショップへ移して、美哉と並んでその人と向かい合う形で座っている。頼んだコーヒーに口を付ける間もなく、その人は大量の資料とMOを次から次へとテーブルの上に置いていく。 こんなことなら教授に名前を訊いておくんだった。 目の前の人、盛田多佳子、いや今は有馬多佳子サンは髪を掻き上げながら、うっすらと笑みを浮かべた。 誰が見ても親子だと分かるような、有馬由宇香は母親によく似た顔立ちをしているのだと知った。 「残りは教授宛に宅配便で送ったから…これで、あなたのお父さんから引き継いだものは全てだと思うわ。と言っても、引き継いでおきながらほとんど手つかずだったから、私から新たに提供できるものはごく僅かなんだけど」 ごめんなさいね、と言いながら彼女はようやくコーヒーカップに手を伸ばした。 「…いえ、俺の我が儘に快く応えて下さったことだけでも感謝してますから」 「きっと、こうするのが一番いいのよ」 大学に入ってから、俺は父親の研究していたことは現在どうなっているのかを調べていた。そして父親と同じ研究室だった人が引き継いでいることを、うちの大学の教授が協力してくれたお陰で、問い合わせて知ることが出来た。 近日中にその教授を介して、引き継いでいる人に会う予定になっていた。 その人が、有馬由宇香の母親だったってわけだ。 「あなたのご両親が亡くなった時にはイギリスへ留学していたんだけれど、知らせを聞いて日本に飛んで帰ってね。それでも葬儀には間に合わなかったから、あなたには会いそびれてしまったけど」 遠い記憶の糸を手繰るように、目を細めて俺を見た。 「トップの成績で入学したんですってね。血は争えないわねぇ」 それを聞いて美哉が横でげっと小さく声を上げた。ウルサイと横目で睨むと、美哉は隠してたなと言いたげに俺を睨み返してきた。くすくすと笑う声に我に返って俺はコーヒーを飲んだ。 「あの、どうしてあなたが引き継ぐことになったんですか」 美哉が突然口を開いた。一瞬、彼女の顔から笑みが消えた。黙ってろと肘で小突くと、だってと美哉は口を尖らした。 「イギリスに留学してたんでしょう? なのに…」 「いろいろ…あって。どうしても私が引き継ぎたかったの」 それはつまり、父親と関係があったから? 心の中で俺はそう問いかけながら見つめた。 この人から母親は父親を奪ったのか。 思ったよりもずっと冷静に、俺はその人と対峙している。 我ながらその冷静さに驚いてもいた。 彼女は俺をまっすぐ見つめ返したかと、ふっと目を逸らせた。 「…遠目には本人かと思ってしまった程父親似だと思ったけど、母親似なのね」 そう言いながらまた曖昧に笑う。その仕草を意外に思った。むしろ、自分から恋人を奪った女の顔に似ている人間を目の当たりにすれば、罪を咎めるような目つきで睨み返してもおかしくはないのに。 どことなく気まずそうな様子が、まるで後ろめたいことから逃れるような感じだった。 …逃れる? 「留学したのは俺の両親のせいですか」 思わずそう口にしていた。彼女は図星だと言わんばかりに目を見開いた。 「ええ…、そう、そうよ。あの人達の傍にいるのが辛かった」 「そういう、積年の恨み辛みを娘に当てつけてきたわけですか」 「由宇香を知っているの?」 「俺に、復讐だと」 途端に彼女は訝しげな顔をした。 「…違うわ、いえ、確かに結局は許婚のもとへ行かざるを得なくて…。望んだ結婚じゃなかったから娘には夫への不満をこぼしていたけれど、でも…」 復讐だなんて、と彼女はそう言うと顔を強張らせた。 俺は眉をひそめた。心外とでも言いたげな表情をしたけれど、有馬由宇香の言っていたように、彼女が幸せそうな様子はうかがえなかった。望まない相手との生活の中で、もし父親と結婚できていたらと唇をかむような思いを何度もしていたのかもしれない。そしてその原因となった顔も知らない俺を憎み続けて、娘にもそれを吹き込んでいた。大方、そんなところだろうと思った。 「…でも心の底では俺を憎んでいるんでしょう?」 え? と彼女はコーヒーカップに伸ばし掛けた手を止めた。 「だって俺のせいであなたは恋人を奪われた」 奇妙な光景だった。 話している内容からすれば、低姿勢になるのは俺の方なのに、彼女の方がどんどん萎縮していっている。端から見たらきっと俺が彼女を責めているみたいに見えるんだろう。 美哉はさっきからテーブルの下で俺のシャツの裾をぎゅっと掴んでいた。まるで今にも飛びかからんばかりの猛犬を押さえつけるかのように。 彼女は微かに手を震わせながら口を開いた。 「ごめんなさい、あの時は…ただ怒りに任せてしまって、まさかあんな大事になるなんて」 「何の、事を言ってるんですか」 はっとしたように彼女は口を閉ざした。 「あなたこそ、一体どこまで知っているの?」 今度は俺が訝しげな顔を浮かべた。 数分後、俺達の光景は見たままの通りとなった。 彼女の話を聞いた後、俺は深呼吸をした。テーブルの下で美哉の手を探ると強く握った。そうでもしないと本当に彼女に飛びかかってしまいそうだったからだ。 もう一度ゆっくりと息を吐いてから、俺は怒りで震える声を吐き出した。 「つまり、あなたは俺を殺そうとしたんですね」 彼女は俯いたまま青ざめていた。 「理由なんてどうだっていい。俺はあなたを許しません」 その言葉に弾かれたように彼女は顔を上げた。両手で口元を覆うと声にならない声を上げた。許しを請うような悲哀に満ちた目から涙がこぼれるのを、俺は冷ややかな目で見下ろしながら静かに立ち上がった。 「失礼します」 有馬由宇香の言っていたことは、全て本当のことではなかった。いや、本当のことだったとしても、俺には何の罪もなかったのだ。 責められるべきは、彼女の方だった。 Copyright (C) 2003 Mutsu Kisaka All Rights Reserved. |