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 俺の名前は黒澤映画の「椿三十郎」から付けられた。本気で三十郎にするつもりだった母を父が止めて椿になったらしい。これだけは本当に感謝してる。
 映画の中の椿三十郎は困ってる人をほっとけないニヒルな浪人だけど。俺はどうなんだろう? ほっとくだろうな、多分。
 受験勉強もそこそこに俺と美哉が「椿三十郎」のビデオを見ている横で、親父は結婚式の写真の選別をしている。俺の横で、美哉がリスみたいにポッキーをぽりぽり囓りながら唸っている。
「昔の映画ってさー、日本語喋ってるんだって分かるまでにけっこう時間掛かるよね」
 なに訳の分かんないこと言ってんだと横目で見ると、美哉が頬を膨らませて言った。
「だって、出だし、なに喋ってるか聞き取れる?」
「いいや」
 途端に横でコーヒーを飲んでいた親父が爆笑する。美哉がおじさんうるさいよーと眉間にしわを寄せたので、親父はごめんごめんと言いながら咳払いをする。テーブルに広げた写真を眺めながら親父は満足げな息を吐いた。
「美哉ちゃんイイ顔してるねえ」
「そう? お姉ちゃんじゃなくて?」
 美哉は頬を赤らめた。
「うん。美千代ちゃんは確かに綺麗だけど、いつも同じだから撮っててもつまんない時があるんだ。その点、美哉ちゃんは同じじゃないから面白い」
「おじさん、それって、なんかあんまり誉められてる気がしない…」
「えー? めちゃめちゃ誉めてますよ。だからあそこに美哉ちゃんの写真引き延ばして飾ってるでしょ?」
 俺と美哉は親父が指さした方を振り返った。五歳の美哉がクマのぬいぐるみを手にして、真っ赤な顔をしかめてこちらを睨み付けている。あれは俺と美千代姉ちゃんに置いて行かれた後の顔だ。
 親父が何か撮りに出掛けようと玄関先に出たら、ちょうど美哉がぽつんと立っていたらしい。今にも泣き出しそうな美哉に焦点を当てて親父がシャッターを切ると、美哉は驚いて振り向いた。そしてプライバシーの侵害と言わんばかりに親父を睨み付けた瞬間がこの写真だ。
「あの頃の美哉ちゃんは、ほんっと撮り甲斐があったなー。子供らしい顔しないけど、子供らしいんだよねー」
「椿の方が子供らしくなかったような気がするけど」
「逆だよ、この頃は。椿なんて、最高にあほっつらだったもん」
 飲みかけていたコーヒーが気管に入って、俺は激しく咳き込んだ。
「あほっつら見たいー」
「傑作いっぱいあるよー」
「見なくていい」
 身を乗り出す美哉を制すと同時に親父を睨む。親父はへらへらと笑っている。
「親父。今日は午後からスタジオに打ち合わせに行くんじゃないの?」
「あ、そうだった」
 冷ややかに言うと親父の顔から笑みが消えた。テーブルに広げた写真を手早くまとめると、美哉に渡す。慌ただしく用意を始めたかと思うと、まるで小学生のように行ってきまーすと元気よく出ていった。

「おじさん元気だねー」
 親父が消えた後、ふふっと笑うと美哉は言った。
「ああ、美哉のこと好きだからな、あの人」
「うん、あたしもおじさん好き」
「ばーか。ロリコンオヤジに好かれて嬉しいのかよ」
 俺は呆れて目を細める。
「そんなんじゃないよ。ま、椿には分かんないだろうけどね」
 美哉は含んだように笑うと親父から手渡された写真を何枚か見る。
「うわー、やっぱあたし太ったかもー。油断した…」
 俺が覗き込もうとするとすかさず隠す。ネガは家にあるんだし無意味だぞと言うと、美哉はうるさいと睨みつけた。
 太ったとか言ってるけど、その前に出るとこ出した方が良いんじゃないのか。ちらりと美哉の胸元を見た。でも、これは口にしようもんなら何されるか分かんないだろうな。ごまかすようにコーヒーを飲む。
「ねえ椿。家出るってほんと?」
 急に美哉が真面目な顔して俺の方に向き合う。俺はしばらく美哉の顔をじっと見ていた。エロ親父のやろう美哉にばらしたな、と思いながらどうはぐらかそうか考えていた。出来れば美哉にはぎりぎりまで知られたくなかったのに。
「ここから通えても出るって、それって」
「そうだよ アコガレの一人暮らし」
「憧れの一人暮らし? 今までもそういう状態の時あったのに?」
「たまたま家族が家にいないのと、初めから一人でいるのとじゃ、意味が全然違うだろ」
 美哉は一瞬寂しそうな顔をして微かに笑った。
「椿はどこに行っちゃうの?」
 訊かれたことの意図が分からなくて俺は面食らった。
「は? 何言ってんだよ」
「…なによ、椿までいなくなる気?」
 美哉はうつむいて唇を噛んでいたかと思うと急に立ち上がる。
「帰る」
「おい待てよ。なんだよ急に」
 慌てて立ち上がって美哉の腕を掴んだ。美哉は怒ったように俺を見上げた。
「あたしには逃げるようにしか思えない。ここから、あたし達から」
「お前な、いい加減なこと言ってんなよ」
「いい加減なんかじゃない。椿は何が怖いのよ」
「…何言ってるかさっぱり分かんねぇな」
「嘘ばっかり」
 吐き捨てるように言うと美哉は再び下を向いた。俺は話をそらせようと必死になっていた。イライラしながら、この間の雨の日のことを思い出した。
「だいたい、この間から一体お前は何が言いたいんだよ?」
 掴んだ美哉の腕が微かに動いた。
「何も。何もないよ」
「嘘つくな」
 美哉はためらうように目線を泳がせる。その動きが止まったとき、低く呟いた。
「賭けって何?」
「賭け?」
「麻生君との、賭けって何?」
 頭の中が真っ白になった。何を言っても結局は自分自身を深みに陥れるんだろうか。墓穴を掘って身動きが取れなくて、俺は諦めた。
「…誰から聞いた?」
「否定しないんだ?」
 美哉は顔をそらせると息で笑った。 
「誤解されるようなことしてるのは椿じゃない。そんなに人の恋路をぶち壊したいの?」
「まさか、お前」
「別に麻生君が好きなんじゃない。陰でこそこそ汚いよ、人のこと利用して」
「悪かったよ」
 反論出来なかった。
「高校受験の時だってそうだよ。…椿はあたしを道具としか見てないんだ」
 思わず掴んだ腕に力が入った。美哉が顔を歪める。
「お姉ちゃんと何があったの?」
 心臓が飛び出そうなくらい、激しく動いた。

 何があったか?

「何でそう思うんだ?」
「思うからよ」
「訊いたこと後悔すんぞ」
「知らずにいるよりましよ」
 美哉は俺の顔を真っ直ぐ見つめて言った。俺は顔を逸らせた。ゆっくりと深呼吸をする。なかなか口に出せなくて、もう一度、大きく息を吐いた。
「美千代姉ちゃんとキスした」
 美哉が固まった。手から落ちた写真が、まるで水のように真っ直ぐ床に落ちて辺りに散らばっていった。
 何か言いたげに美哉の口が微かに動く。
「離して…?」
 震える声で言うと俺が掴んでいた腕を内側から払いのけた。俺は振り払われた腕をゆっくりと下ろした。
「あんたサイテーだわ…」
 美哉は刺すような視線で俺を睨み付けると、うつむき加減で玄関の方へのろのろと歩いていく。後は追えなかった。ビデオデッキからガチャッと音がして振り返った。いつの間にか映画は終わっていて、最後まで再生され尽くしていた。テープが勢いよく巻き戻り始める。
 美哉が帰ってしまって、写真が散らばった部屋に一人取り残された。ふと一枚の写真に目が止まる。美千代姉ちゃんと美哉の間に立って、複雑なそうな顔をした間抜けな男が写っていた。
 その時、この日美千代姉ちゃんから言われたことを思い出した。
『美哉のことよろしくね。寂しがり屋の甘ったれだから』
 頭をがつんと殴られた気分だった。分かっていたつもりだったのに。顔を上げると五歳の美哉と目が合った。遅いんだよと言われている気がした。
 俺の中でブツッと音を立てて糸が切れた。


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