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 突然、腕を引っぱられて俺は声を上げそうになった。振り返ると美哉の不審気な顔があった。
「椿、何処にしたの?」
「え?」
 放課後、美哉と本屋に立ち寄った。目当ての物をそれぞれ物色していたけど、背表紙を追うのに夢中で美哉に話しかけられていたことに全然気付かなかった。
「志望校。プリント配られなかった?」
「…ああ」
 そういえば今朝、進学先を書かされたっけと思い出す。
「だから、ああ、じゃなくってさー」
 美哉は溜息をつくと、俺がぱらぱらめくって棚に戻した参考書を取り上げる。真似してぱらぱらめくると、うげーと小さく呟いてすぐ棚に戻した。
「やっぱり、国立だよね?」
「んー、かな」
「東大とか」
「んー、どうだろう」
 美哉が無言で睨み付けているのに気付いた。
「なんだよ」
「内緒にする気?」
「そういうお前は何処にしたんだよ」
「椿が教えてくれたら言う」
「じゃあ俺も美哉が教えてくれたら答える」
 美哉は口をへの字にして鼻で大きく息をする。
「鼻息荒いぞ」
 めぼしい物がなくて店を出る。背後でうがーと美哉が吠えている。

 受験生で、6月で。そういうことに何も実感がわかないのは、やっぱり去年のあの結婚宣言のせいだろうか。それに加えて結婚式での言葉がずっと頭を駆けめぐっている。
 雨はここ最近休みなく降っていた。結婚式はよく晴れたもんだと思う。
 洗濯物が乾きゃしねぇとか、無駄な時間を費やされないためにも、そろそろ本気で乾燥機を買うよう親父を説得しなきゃとか、親父が暇そうなら風呂場のカビをどうにかしてもらおうとか、考えるのはまるで主婦みたいなどうでもいいことばかりだった。
 いっそ傘も差さずに雨に打たれていれば、もやもやしたモノが流れてってくれるだろうか。
 …ああ、今月末には生徒会の引継ぎ完了させないとな。

 ゴツ、と傘に衝撃がくる。美哉だった。完全に忘れてた。
「ずるいよ」
「なんで」
「心配しなくてもね、さすがに大学まで一緒のとこなんて行けませんよーだ」
「へーそうなんだ」
 高校は何とかくっついてきただけに意外だった。
「だから教えろー」
「やだね」
 脇腹にグーパンチが飛んでくる。その腕を掴んで、美哉を睨みながら払い飛ばした。
「ほんとは麻布とか開成に行けたんでしょ?」
「そんなことないよ」
「ウソだねー。だってあたし先生に頼まれたことあるもん」
「いつ?」
「小学校の時。小林先生に『美哉ちゃんお願いだから、椿君に受けるだけでもいいからって頼んでちょうだい』って」
「あっそ。行きもしないとこ受けるような無駄なことはしない」
 そういうヤツよねあんたは、と顔に表れている。よく分かってんじゃないか。今の今までそんなこと頼まれてたなんて、一言も言わなかったクセに。
「おじさんは何も言わないの?」
「あの人は俺の行きたいところに行けばいいって考えだから」
 だからせめて金は掛からないところにしようと私立は蹴ってきた。
「金銭面でしか援助できないけど、まあ頑張れって言ってたな」
 美哉は不思議そうな顔をした。
「違うよ。勉強みてやれるわけじゃないからってことだよ。現実的だけど、一番肝心なことだから。つまり、受験費とか入学金とか、諸々の金の心配なんて余計なことはしなくていいってさ」
「…おじさんはそういうとこスゴイよね」
「ああ」
 なぜかそこで急に会話が止まってしまった。
 美哉の家の前までたどり着く。門戸を半分開けたところで、美哉はじゃあねと小さく言うと、さらに何か言いたそうな顔をして俺の方を見た。美哉の口が開くのを待っていたけど、美哉は微かに笑っただけで何も言わずに家の中へ入っていった。
 俺はしばらくそこに立ち止まったまま、動けなかった。
 雨は夕闇にのまれることなく降り続く。その音だけが頭の中に響いていた。美哉は何を言いたかったんだろうか。


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 優しさが辛いときがある。
 実は大学に入ったら家を出ようと思っていた。奨学金とかバイトで何とかなりそうなら尚更だ。
 実際、親父と呼んではいるけど血の繋がりはない。母さんの葬式の時にそれはイヤっていうほど分かった。義兄の子供だってだけで、ここまで面倒みてもらったことは感謝している。けど、それ以上に俺はあの人の人生の荷物になっているんじゃないかという罪悪感が頭から離れなかった。自分の子供みたいに育ててくれたし、俺も本当の親のように思っている。それでも時々考えてしまう。気にしちゃいけないことだとは分かっているけど。優しくされればされるほど、それから逃れたいと思ってしまう自分がまるで背徳者のように思えた。
 このことは誰かに口にしたことはない。いや、正確には出来ない。


「椿、どうするつもりなんだ?」
 風呂上がりの俺に、リビングのソファに寝転がりながら野球の中継を見ていた親父が突然切りだした。
「やっぱり、ここ出ることになると思う」
 そう答えると親父はそうか、と言ってこっちを振り返った。
「ここから通えるとこなら寂しくないし、いろいろ楽なんだけどなー…って言っても俺の都合だしね。で、何処に行きたいんだ?」
「通えるけど、出る。だから仕送りはいらない」
 親父は軽く目を見開いた。
「いらないって…」
「奨学金とバイトで何とかするから」
 ぼそぼそと答えると、親父はテレビのボリュームを下げて体をこっちに向けた。
「…あんな昔の話、気にしてるのか?」
「別に…」
「なあ、親戚連中の言う事なんてほっときゃいいんだよ。お前が気にすることじゃない」
「でも」
「確かに俺は長男だし、跡継ぎがどうのってじーさんはうるさく言ってるよ? だけどこんな仕事してて跡継ぎも何もないだろう。俺ははなっから放棄してるから」
 俺は首に掛けたタオルを握りしめた。
「土地とか金とか、欲しいならくれてやるよ。俺はここさえありゃいいんだ」
 親父はビールを飲みながら口を歪めて笑った。
「だけど、この家が俺の物になるんじゃないのかって、おばさん達は気が気じゃないんだろ?」
「そんなの、ばばあ共が目くじら立てたって今は俺の物だし、お前は俺の養子だもん」
 ばばあ共って、仮にも姉妹じゃないのか? と突っ込みかけたけど、それより”養子”という言葉に体がぴくっと反応した。 
「そういえば義姉さんは一人っ子だったな。その辺はどうしたんだっけかなぁ…。でもまあ、とにかく俺んとこは気にしなくていいんだよ」
「…なんで早まったんだよ。養子なんて」
 うつむき加減で言うと親父は微かに笑った。
「義兄さんの姓を名乗りたかったって事? あーそれはごめん、義兄さん次男だからいいかなーって。安易だったな悪かったよ」
「そうじゃなくて」
 俺が遮ると、親父はふーっと大きく息を吐いた。
「話してなかったけど、沙苗(さなえ)さんに子供は無理だって分かったときから考えてたんだよ」
 俺は顔を上げた。本当に初耳だった。
「沙苗さんが子供好きなの知ってたから、養子をもらおうかって話をずっとしててさ。赤の他人の子か、血縁のある子かって違いなだけで、まあこれも運命のいたずらってやつかなぁ」
「親父はどうなの」
「え?」
 本当はいらなかったんじゃないのか?
 さすがにそれは言えなかった。親父は空にになったビールの缶を器用にねじって潰すとテーブルの上に置いた。
「椿クン、いいこと教えてやろうか?」
「なに」
「俺達がこの先食いっぱぐれるようなことがあったとしても、俺には沙苗さんの、お前には義兄さん達の保険金が、それぞれ丸々あるんだわ」 
 俺は眉をひそめて親父を見た。
「俺が嫌々養ってんじゃないかなんてつまんないことごちゃごちゃ考えてんなら、そこから養育費出してやるけど?」
 思わず首に掛けてたタオルを親父に向かって投げつけた。親父は飛んできたタオルを顔の前で掴み取ると苦笑した。
「残った者同士、傷は舐め合って生きていかなきゃ。その為にもこれから先ずっと、俺はお前が必要だよ。そうだな、ぶっちゃけた話、お前を養子にしたのは俺のエゴだ」
 親父は自嘲するように口元を歪めると俺を見た。
「沙苗さんが長くないの知ってたんだから」
 何もかも見透かされてるような気がして、俺は逃げるように自分の部屋へ行った。


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