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 美哉はにっこり笑うと俺に手を差し伸べた。
『一緒に行こ? 怖かったらずっと手繋いでてあげる』

 そこで目が覚めて飛び起きた。辺りを見回す。誰もいない昼休みの生徒会室。俺が飛び起きた衝撃で机と椅子が動いた音が微かに残響するほど、部屋はしんと静まり返っている。壁の向こう側のざわめきが耳の奥で響いている感じがした。深く溜息をついてから、机に肘をついて頭を両手で支えるようにしてうつむく。もう一度目を閉じて耳を澄ますと、遠くで誰かがばたばたと廊下を走っている音が聞こえた。
 湿った前髪を掻き上げる。焦って余計な汗をかいた。
 あれは俺がここに越してきてすぐの頃だっただろうか。


 親父が言うには、両親が生きていた頃の俺は、わがままでいたずら好きで相当手の掛かるガキだったらしい。もうすぐ四歳になろうかというある日、二泊三日のペア旅行が福引きで当たって、二人は新婚旅行の代わりすることにした。当日の朝、バーちゃんちに預けられることになっていた俺は、置いて行かれるのがイヤで二人に縋り付いて離れなかった。母親が困った顔をしつつ俺を抱きしめて、こう言ったのを今でも覚えている。
「大丈夫よ椿。すぐ帰ってくるから。いい子にしてたらお土産たくさん買ってきてあげる」
 でも帰ってこなかった。
 旅行先で居眠り運転していた大型トラックにもろに突っ込まれたんだそうだ。

 そのままバーちゃんちにいたけど、過疎化の田舎にいても寂しさは募る一方だった。近所に同じ年頃の子供がいるはずもなくて、毎日毎日一人で田んぼのあぜ道を当てもなく歩いた。周りの大人はふさぎ込む俺を持て余していた。バーちゃんですら手に負えなかったらしい。
 その時は、こうなってしまったのは両親にいくらなだめられても言うことを聞かなかった自分のせいなんじゃないのかと思っていた。飯もロクに喉を通らないくせに、朝から夕暮れまで、それこそ気が触れたように歩き回った。
 道行く先々で俺が近付くとカエルは水の中に飛び込んで逃げていったし、ヘビもするっと草むらの中に消えていく。まるでこの世の全てのものとの関わりを、罰として取り上げられたような気がした。
 ある日家に戻ると親父と母さんがいた。頻繁に家に遊びに来ていたから知らないわけじゃなかったけど、二人の顔を見た途端に両親を思い出してしまった。避けるように自分が寝起きしている部屋へ逃げた。押入の中に隠れてうずくまる。訳もなく怖かった。
 やがてふすまが静かに開く音がして、俺は体を強張らせた。
「椿君?」
 優しく呼ぶ声がして耳を塞いだ。しばらくしてそっと押入の戸が開けられた。暗闇に一筋の光が目に飛び込んできて、目を固く閉じた。
「椿君、おばさんの家に行こう? お友達も近所にいるからきっと寂しくないわ」
 柔らかな声の方へ顔を向けると、母さんがまるで聖母みたいに笑いかけていた。
「出てらっしゃい。そんなところに隠れてたらネズミにお尻かじられちゃうわよ」
 恐る恐る這い出ると、抱きかかえ上げられた。ふんわりと優しい匂いがした。
「もう大丈夫。今まで一人で辛かったね」
 耳元でそう囁かれた途端、罪が許されたと思った。俺は堰を切ったように泣き出した。泣いたのは両親が出掛けた日の朝以来だった。
 これで途方もない寂しさから解放されるんだという安堵よりも、もっとシンプルに、ただ誰かに抱きしめて欲しかっただけなのかもしれない。とにかく、母さんに大丈夫と言われて、本当に大丈夫なんだと思った。
 だから、その母さんが死んだときには、いっそ俺も連れてってくれれば良かったのにと思ったこともあった。正直、実の親が死んだ時よりも辛かった。それは過ごした時間の長さ以上に、一緒に残された親父の泣いてる姿を見てしまったからなんだと思う。

 母さんは親父の大学の後輩だったらしいけど、親父はずっと「沙苗さん」と呼ぶ。いつかその理由を聞いたら、醸し出す雰囲気が神々しくてとても呼び捨てになんて出来ないと言っていた。確かにあの日の姿を思えば納得出来る。特に写真に写ると、宗教画みたく背後に光の輪が付いててもおかしくないような、そんな雰囲気があった。
 親父曰く、病気やなんかで命が長くない人は、それを見越しているからのか、その分他の人よりもぐっと濃縮して生きているからなのか、何かを超越したオーラを発してるんだそうだ。宗教がかってて笑われそうな話だけど、カメラのファインダー越しにそういうのが見えるんだと言う親父を俺は否定しない。
 現に母さんはそんな人だったし、この家に来て俺はかなり癒された。

 そしてあの日、美哉に会った。
 出来るだけ母さんを困らせるようなことだけはするまいと誓っていたけど、幼稚園の入園式というその日はどうしてもダメだった。家の門にしがみついていたら、おばさんに手を引かれた美哉が来た。母さんがおばさんと苦笑している脇で、美哉はいきなり俺に笑いかけた。
「一緒に行こ? 怖かったらずっと手繋いでてあげる」
 ぽかんとして俺に手を差し伸べる美哉を見た。そんな俺を、不思議そうな顔をして見つめ返す美哉は、なんだか母さんに似ていると思った。思わずその手につかまった。

 親父が美哉を気に入っている理由は、きっと似ているからだ。
 取り留めもなく昔のことを思い出して、目を開けた。時計を見ると昼休みの時間が終わりかけていた。俺は生徒会教室を後にした。


 教室に戻ると麻生が渋い顔をしながら三千円を手渡してきた。それを突っ返すと麻生が不思議そうな顔をした。卑屈な笑みを浮かべた俺に麻生は笑って言った。
「なんで? 俺負けたんだよ? やっぱさ、なんかダメだった。おとなし過ぎて調子狂うんだわ、あの子」
 かりかりと頭を掻く麻生に俺は小さな声で言った。
「なあ、お前、美哉に告れよ」
 麻生の顔色が変わった。
「え、ちょっ…北野どうしたんだよ?」
「どうもしないよ。ホントはわざわざ俺に断る必要もないんだ」
「マジで? なんかあったのか?」
「別に何も」 
 タイミング良くチャイムが鳴った。麻生は唖然としたように俺を見ていた。
 これで良いんだと思った。美哉を利用していたんだから。
 そして、美哉を傷つけた。 
 こんな俺をなんでみんな完璧人間だなんて言うんだろう。欲しいものを手に入れることが出来ないでいるのに。


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 とっくに解約されてたらどうしようかと不安に思いつつ、携帯を取り上げる。電話帳に登録された名前を呼びだして、ボタンを押した。
「もしもし?」
 何回目かの呼び出し音の後で、明るい耳慣れた声がした。
「あ、俺です」
「椿? なによ、どうしたの?」 
「ごめん、俺、のっけから美哉傷つけた」
「はあ?」
 俺はことの顛末を話した。美千代姉ちゃんは黙って聞いていたけど、俺が話し終わると一言、バカねえと呆れたように言った。
「そんなん言われなくても分かってるよ」
 ペットボトルのコーラを一口飲むと俺は続けた。
「あのさ、あれからずっと考えてたんだ。でもやっぱり分からない」
「分からないままでいる方がいいこともあるのかも知れないわよ」
 そう言われて一瞬、口を開くのをためらった。
「美千代姉ちゃんは何を求めてて、何が分かったの」
「やっぱり知りたいのか」
 美千代姉ちゃんは小さな声でそう言うと、しばらく黙ってしまった。そして静かに話し始めた。
「言っとくけど、今だから言える話よ? あの時ね、合格祝いにキスが欲しいって言われた時はビックリしたけど、ちょうどその時つき合ってた人と別れたばかりだったから、椿でも悪くないなって思ったの」
 俺は息を飲んだ。
「美哉も一緒に合格させることって条件出しつつ、どこかで期待してた。そんなにがむしゃらになるほど好きなのかと思って。でもね、実際にキスしてみたら、椿は女としてあたしを見ていたわけじゃなかったんだって分かっちゃったのよ」
「俺は…」
「そしたら一瞬でも椿を男として見てた自分がすごく恥ずかしくなった。なんでもっと早く気付かなかったのかな。沙苗おばさんが亡くなってまだ一年も経ってなかったのよね」
「違うよ、そうじゃない」
「今さら何言っても、あの時の椿の顔は忘れないわ」
 確かに想像してたよりも、ずっと大人っぽいキスだとは思った。だけど。
「ここまで言って、優等生のあんたがどうして分かんないの?」
「分かってるよ」
「分かってないわよ。椿、あんたは恋をしていたんじゃないの。ただ、寂しかっただけなのよ」
「あのときはそうかもしれなかったけど」
「…そうね。どっちかなら良かったの。恋愛対象として見るか、沙苗おばさんと重ねて見るか、でも椿の場合ごちゃ混ぜなんだもの。だからあたしはあえて後者の姿勢をとっていこうって思ったの」
「ああ、あのあとからなんか一線引かれてるなって思ってた」
「ごちゃ混ぜのままの椿を受け止めるなんて器用なことは出来なかったから。ごめん」
「いや。…仕方ないでしょ」
 確かに言われてみればそうだったのかもしれない。キスしてる最中、生々しさに一瞬引いて、自分が欲しかったのはキスだったんじゃないことに気付いた。バレてないといいなと思ってたけど、そう簡単に物事は上手く進みはしないってことなんだろう。
「美哉とちゃんと話して」
「うん」
「怖がってるのはね、あの子の方だと思うの」
 ありがとうと素直に言うと、美千代姉ちゃんは何だか気持ち悪いわと笑った。

 息が詰まりそうな空気が部屋に充満している気がして窓を開けた。部屋の中とたいして変わらない、生ぬるい空気が体をすり抜けるだけだった。窓を背に部屋の中を振り返る。俺の家は要塞みたいでイヤと美哉はよく言っていた。俺もそうだと思う。母さんがいた頃はそんなこと思いもしなかったのに、いなくなってからはまるで陸の上のアルカトラズみたいだった。
 薄暗い部屋の中であちこちに山積みになった本を眺める。俺の中の吐き出せない鬱積が形となって積み上げられている気がした。


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「北野君」
「…はい?」
「あのー、引継ぎの件なんだけど…」 
「こちら側の準備はとっくに出来てますよ」
 廊下で呼ばれて振り返ると、生徒会顧問の先生が恐る恐る俺を見上げる。歳は先生の方が一回り上なのに、身長は頭一つ以上差があるってのもなんか妙だよなといつも思う。
「ああ、そう、そうだよね。今年の会長はなんだかのんびりしてるみたいだねえ」
 あははーと先生は乾いた笑いを上げる。俺は目を細めた。
「近々、強制的に呼び出して引き継がせますんで、ご心配なく。どっちにしろ早く済ませないとこっちも落ち着かないんで」
 そう言うと先生は受験勉強があるんだもんねえと呟いた。
「なんだかんだであっという間だったなぁ…。歴代生徒会長の中で北野君が一番優秀だったよ。模試の結果はどう?」
「一応、合格圏内には入ってますよ」
「そっか、頑張ってね」
 わざわざ引き留めて悪かったね、と先生は済まなさそうに言って足早に去っていく。あの先生も大概、気が弱い人だよなと後ろ姿を見送りながら思った。仏頂面なのは地の顔だし、別にいつも機嫌を悪くしていた訳じゃなかったはずだけど。
 
 再び廊下を歩き始める。
 美哉のクラスの前まで来て、思わず足が止まった。
 何となく期待していた人物がそこにはいたけど、思ってもみなかったシチュエーションで一気に心拍数が上がった。
 別段、人目を憚る様子もなく開け放たれたままの入り口から、切り取られた絵のように向かい合って立って俯く美哉と男の後ろ姿が見えた。ちょうど通りかかったときに「つき合って欲しいんだけど」という低い声が、確かに聞こえた。


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