----- ファム・ファタールと羊の夢 >>> 1 「ンー、ンーン、ンー、ンー、ンーン……」 少し古ぼけたマンションの一室で、ネリネはベッドの上に座っていた。頭の中で、小さい頃よく聴いていた歌が繰り返し流れている。口ずさむメロディに合わせるかのように、雨音が静かに部屋を浸食していた。 外は降り続く雨のせいで薄暗い。ここ数年、異常気象が続いて、東京はすっかり熱帯雨林のような雨と蒸し暑さだ。だけど、こうも異常が続くとそれは正常なのかもしれない。乱立する高層ビルに遮られ、地面に太陽の光は届かない。まさにコンクリートジャングルだった。 部屋の窓を覆っている青いカーテンの隙間から、街灯の明かりが差し込む。部屋はほんのりとカーテンの色に青く染まっていた。時間の上ではまだ昼間なのに、部屋の中はまるで夜更けのようにしんと静まり返っている。 先ほどからちりちりとこめかみの辺りに痛みが走る。その波が通り過ぎるのを、ネリネはじっと耐えて待つ。ぼんやりと見つめていた天井がぐにゃりと歪んで、ネリネは思わず瞬きをして目を擦った。 最近、目が霞むことが多くなった。疲れのせいだろうかと考えて、横になろうとする。しかし、テーブルの上に放り投げたままの郵便物を思い出して、ネリネはのそりとベッドから立ち上がった。 茶色い、柔らかそうな髪が肩のあたりでゆらりと揺れた。髪を耳に掛けながら華奢な手をテーブルの方へ伸ばす。公共料金や携帯電話の請求書、それに中身がシールで封じられているハガキが一枚。そのハガキの裏面には“国立東京第五病院”と印刷された文字があった。ネリネは印のついている一角に沿って、丁寧に封じられていた部分を広げる。 中身に目を通すとネリネは溜息をついた。 これで痛みも治まる。 テーブルの上にハガキを放り投げると、ベッドに倒れ込むように横になった。 なんとなしにつけていたテレビからはニュースが流れている。 かねてから東京K大学と大手自動車メーカーとの間で、人造人間、いわゆるアンドロイドを作るプロジェクトが進行していたが、きわめて精巧な試作品が完成したことが、アナウンサーの抑揚のない口調で伝えられていた。 ここ数年で、人型ロボットが原発所や高層ビルの建築現場などの危険な場所で、人間の代わりに作業をする割合が増えてきてはいた。だがそれらの体組織は殆どが無機物によって占められており、有機物の割合の多い、人造“人間”の域に達するレベルのロボットはまだ世間には姿を現してはいなかった。 画面に映る、マネキンのようにつるりとした表情のロボットと、ほぼ人間と変わらない外見の試作品を見て、ネリネは思わず眉をひそめた。しばらくその映像を見ていたが、嫌悪を感じてネリネはテレビを消した。 国立東京第五病院は、新たに東京湾の一部を埋め立てられた土地に建てられている。その地に居を構えてからまだ数年も経っていない、新しい病院だ。特定の疾患を専門的に扱っているので、一般の病院のように賑わっておらず、患者の出入りは少ない。 ネリネはその病院の入り口へ向かって歩いていた。 日を遮る大きな建物もなく、午後の日差しがネリネにまっすぐ降り注ぐ。湿った海風が体にべたべたとまとわりついてくる。それらから逃れるようにネリネは早足で入り口の自動ドアをくぐり抜けた。 ネリネと入れ替わりに、退院患者とその家族、看護師らが外に出ていく。 その和やかな雰囲気に、ネリネは思わず顔を逸らせた。 病院内は閑散としている。クリーム色の内装で暖かみはあるが、暑くも寒くもなく、湿度も適切に調節されているお陰で、無機質な空間を作り上げていた。受付周辺の待合室には焦げ茶色の合皮ソファが並べられており、ぱらぱらと一定の間隔をとって老若男女が座っている。 真っ直ぐ受付へ向かう。受付に座っていた中年の女性はネリネに気付くと笑顔で迎えた。 「もう一ヶ月過ぎたのね、早いわ。調子はどう」 ネリネはほんの少しはにかんだ笑みを浮かべて、良いですと答えた。 「じゃ、これに記入して待ってもらえる」 手早く記入を済ませた後、ネリネは合皮ソファに座った。辺りを見回したが、自分だけが種類の違う生物のような、そんな気がして顔を伏せる。ここにやって来るといつもそうだった。 月に一度の定期検診。ここに来るのは好きじゃないのに、どうしてあの受付の人に笑いかけてしまうんだろう。 ネリネは自分の感情とは裏腹の行動に戸惑う。 「クラハシさん、クラハシネリネさん」 不意に名前を呼ばれて、ネリネは顔を引き上げた。立ち上がると、看護師の後をついていく。 ネリネがこれから向かう場所は受付のある建物とは別棟になっている。ガラス張りの渡り廊下を通っていくのだが、その間、看護師とネリネは終始無言だった。別棟に近付くにつれて、異様な静けさが増していく。 エレベーターを待つ間、ネリネは小さく息をついた。 ポーンという音と共にエレベーターの扉が開き、中から一人の黒っぽいスーツ姿の男が下りてくる。病院の職員とも、患者とも思えないその様子は薬品会社の営業マンのようだった。 ネリネはその姿を見送ると、エレベーターに乗り込んだ。 「頭痛に目のかすみだね」 担当医はカルテに判読不明の筆記体文字を書き込みながら言った。おそらく、というよりもほぼ間違いなくドイツ語なのだろうが、いずれにしろ読みとることは出来ない。 医学用語がドイツ語なのは、患者に病名を悟られないためだという話をネリネは思いだした。ではドイツ人はどのようにして悟られないようにしているのだろうと考える。日本語だったら面白い、とネリネは頭の中で笑った。 診察室というにはあまりにも簡素な部屋だった。灰色のスチール製の机の上は、神経質なほどきちんと整理整頓されている。ネリネはその脇の椅子に、担当医と向かい合う形で座っている。 担当医はゴトウといった。年は三十代半ばといったところだろうか。青白い顔の、細身の男だった。時折、縁なしの眼鏡を指で押し上げるのをネリネはぼんやりと見つめる。 『耳鳴りはしないか』『手足にしびれはないか』などの質問に、ネリネはここ最近の僅かな兆候も逃さないように、ひとつひとつゆっくりと思い出しながら答える。 とん、と最後の文字を書き終えてゴトウがネリネの方に顔を向けた。暖かみのある、柔らかい笑みがネリネの方に向けられる。ネリネがその顔をまじまじと見つめると、ゴトウは目をカルテの方へ逸らせた。 「特に重大な問題はないようだね。頭痛も、目のかすみも、この間切り替えた薬の副作用だろう。量を変えてみよう、しばらくすれば落ち着くはずだよ」 「あとどのくらい定期検診に通えば、私は完治したとみなされるのですか?」 ネリネがふいにそう尋ねると、ゴトウは一瞬驚いたような表情を見せた。眼鏡を押し上げながら、ゴトウは口を開いた。 「それは、これからする精密検査の結果次第だね……」 ネリネは目を伏せると、そうですか、と呟いた。 「焦っちゃダメだよ。長い目で見ていかなければだめなんだ。必ず治るのだからね?」 ゴトウはそう言いながら立ち上がった。ネリネも立ち上がると、二人は検査室へ向かった。 「もうすぐ、もうすぐだよ……」 ゴトウが微かに呟いた。ネリネが何がですかと問うと、ゴトウは慌てたように眼鏡を押し上げ、なんでもないよと咳払いをした。 クリーム色のすとんとしたワンピースのような検査服も、ネリネは嫌いだった。ちょうど割烹着のような形で、背中部分を二カ所、紐を結んで着るような仕立てになっている。病院内の温度は二十度に保たれているので、寒さを感じることはなかったが、なんとなく落ち着かない。 しかも、MRIのような機械を前に、されるがままになるのはもっと落ち着かなかった。ガラスの壁で二つに区切られた部屋のベッドに、ネリネは仰向けに横になる。こめかみの横には吸盤が取り付けられた。そこから伸びるケーブルが、データの集積装置を伝わって、部屋の向こう側にいるゴトウ達に送る仕組みになっている。 どういう類のデータを録っているのかはネリネには分からない。 ネリネは天井に目を向けてじっとしていた。 麻酔がかけられているわけではないが、さきほどから頭がぼんやりとしている。 『やっぱり視覚神経の一部に障害があったか、補修しておこう』 ふいにそんな会話がスピーカーから耳に飛び込んできて、ネリネはガラス越しにゴトウ達の方を向いた。彼らはネリネがこちらを向いていることに気がついていない様子で、モニターの画面を見つめている。 『先生、今日行うんですか』 驚いた看護師に、ゴトウは当然といった顔つきをした。 『そうだよ、何か不都合でも?』 『いえ、さっき……』 『気にすることはない。大丈夫だよ』 自信ありげにゴトウが顔を上げたとき、ネリネと目があった。ネリネの不安げな目に気がついたのか、ゴトウの顔色が変わった。 『君、マイクの電源が入ったまま……』 ゴトウが声を荒げた瞬間、スピーカーからの音は途絶えた。 それと同時に、ネリネの視界が電気を消したように暗くなった。 意識も、そこで途絶えた。 Copyright (C) 2003 Mutsu Kisaka All Rights Reserved. |