----- ファム・ファタールと羊の夢


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 ポーン、とエレベーターが到着したことを知らせる音が鳴って、ネリネは我に返る。
 辺りを見回すが、誰もいない。しんと静まり返っていた。
 前回の検診から一ヶ月。
 いつも通り、看護師に連れてこられた道を戻り、ネリネは病院を出た。影が長く伸び、辺りはぼんやりと夕方独特の、黄昏色に染まっていた。この町は電線類が地中化されているので、空を見上げても、目の前を横切る五線譜のような線はない。
 ネリネはひとつ、ゆっくりと深呼吸をする。
 そのひと呼吸で体の中がリセットされたような感覚を確認すると、ネリネは足を一歩踏み出した。
 今日の晩ご飯は、ハンバーグにしよう。前に食べたのは、そう、23日前。
 そんなことを考えながら、駅へ向かう。
 電車の揺れはまるでゆりかごのようだとネリネは思った。
 向かいの席の窓から、柔らかい日の光が射し込む。ネリネの隣に親子連れが座っていて、母親に抱かれた子供が不思議そうにネリネを見つめる。ネリネが笑いかけると、子供も笑い返す。そのやりとりに気がついた母親もネリネに微笑んだ。傍らではサラリーマンがうとうとしながら頭を揺らしている。穏やかな空間だった。
 新たに処方された薬は、たちどころにネリネの不快な症状を消し去ってくれた。もうしばらく、我慢して病院に通えば健康な体を取り戻せる。
 ネリネは自分にそう言い聞かせた。
 健康になったら、車の免許を取りに行くのもいいかもしれない。線路の脇を走り抜ける車を見ながらネリネは考えた。自由で気ままで、どこへでも自分を連れていってくれる便利なマシン。ごみごみした都会を離れて、緑の多いゆったりとした土地へ行きたい、そう考えるのは昨夜眺めていた、異国の写真集のせいだろう。
 再び電車内に目を向ける。あちこちで本を広げたり、目を閉じていたりする人々の姿が見える。
 こういう光景を幸福そうだとネリネは思った。
 不意に視線を感じて、その視線の方へ目を向ける。だが、特に変わった様子は見られなかった。隣にいる子供は母親の腕の中で眠りに落ちていた。頬が赤く染まっているのは体温が上昇しているのだろうか。ネリネは小さく息を吐くと、鞄から本を取り出した。


 夏場は、週の半分は雨が降る。
 ネリネは傘の影から空を見上げた。雨はまっすぐ地面に向かって落ちてくる。その音は回りの騒音をかき消し、遠くで響くクラクションに心地よいフィルターをかけてくれる。
 雨の日はなんとなく頭が重いように感じたが、嫌いではなかった。
 商店街の中程にあるコンビニに入って、アイスクリームを取り出そうと扉を開ける。クッキー&クリームのカップを取り出して閉める瞬間に、扉に映り込んだ自分を見ている影が気付いた。
 ネリネはハッとして振り返った。だが、そこには誰もいなかった。ひんやりとした灯り。雑誌のコーナーにたむろするどことなく無機質な人達。てらてらと光る陳列商品。なんの脈絡もない店内のBGM。うろんな空気。
 ネリネは漠然とした不安に襲われた。
 誰かが私を見ている。
 でもその人影も、気配もない。
 ネリネは急いで支払いを済ませると、店を出た。辺りを見回したが、道行く人は誰もネリネに気を留めない。それがネリネを安心させたが、寂しくもさせた。
 いつもならのんびりと歩いて帰るのだが、その日は足早になった。誰かに見られているような気がして何度も振り返るが、やはりそれらしき姿は見えない。
 なぜ監視されるのだろうか。後ろめたいことは何もしていないはずだ。悪目立ちするような暮らしぶりでもない。月に一度、病院へ検診に行く以外はこれといって通う場所もない。むしろネリネの生活は、何かから隠れるかのように密やかだった。
 住宅地に入ると、雨のせいで出足が少ないせいか、よりいっそうしんと静かになる。晴れていれば、そこにはネリネの足音が響くが、雨音にかき消されてそれも聞こえない。だが、今は聞こえないのが救いだった。もし足音がひとつでないことが分かってしまえば、もっと落ち着かなかっただろう。
 背後に神経をとがらせながら、ネリネはサスペンスのテレビドラマを思い浮かべた。冒頭のシーン、夜道をひとり駅から自宅へ向かう女性。ひと気のない道が自然と彼女の歩みを早くさせる。そこへ何者かの気配、続いて、女性と重なる足音。それに気付いた女性は堪えきれずに走り出す。後ろから誰かに追い掛けられ、女性は必死の形相だ。あと少しで家に辿り着くというところで肩を掴まれる。悲鳴を上げて振り返ると、そこには刃物を持った覆面姿の男が…。
 そこまで頭の中で映像を再現すると、思わず身震いがした。がさっと物音がしてネリネは傘を放り出しそうになる。振り返ると、猫が生け垣から体を強張らせてネリネの方を向いていた。ネリネは放心してしばらく猫と見つめ合っていたが、お互いが相手を恐れたことから生み出された、滑稽な一幕だった。
 猫がふいっと顔を背けて生け垣の向こうへ消えたので、ネリネは溜息をひとつついて歩きだした。だが、その足取りはさっきよりも速くなり、しまいには自分のアパートが見えると駆け出していた。


*   *   *

 
 駅の改札を抜け、昼下がりの陽の光を頭上に浴びながら、ネリネは病院へ向かっていた。今日は珍しく天気も良い。だが気分は優れない。
 ここしばらくの間、ネリネは絶えず誰かの視線を感じ続けた。それが余計にネリネの足取りを重くさせる。
 こういう日には、晩ご飯においしいものを食べよう。鶏の肉じゃがなんていいかもしれない。ネリネはそう考えた。
 病院まで後少し、というところでネリネの脇に一台の車が止まった。窓がすっと下りて、中から男がネリネを見上げた。
「あのすみません、道に迷ってしまったんですが、この近辺にあるサイトウビルという建物ご存知ないですか」
 ネリネは運転席の男を見た。スーツ姿、黒縁眼鏡を掛けている。髪の毛を七三に分け、小綺麗な印象。若く見える外見と、落ち着いた物言いが実年齢をあやふやにしている。ダッシュボードの辺りに目が止まった。
「あなたの車にはナビゲーションシステムがあるようですけど」
 男はカーナビの方にちらりと目をやった。
「カーナビはここだと言い張るんですけど、どうもそれらしき建物が見当たらなくて」
「申し訳ないのですが、私はこの辺りに住んでいないので分かりかねます」
「そうでしたか、足をお止めしてすみませんね。ところで、あなたはあの病院に通ってらっしゃるんですか」
 男は病院の方に目を向けた。
「なぜそんなことを尋ねるのですか」
「この辺りは住宅街ではないし、行くところと言えばあの病院くらいしかありませんからね。どこかお悪いんですか」
 ネリネは一瞬不愉快そうに眉をひそめたが、男の屈託のない笑みに口を開いた。
「小さい頃に脳に腫瘍が出来たのです。それで定期検診に通っているのです」
「それは大変でしたね。じゃあ、今は順調に快復なさっているんですね? 見たところとてもお元気そうだ」
「ええ、そうみたいです」
「あはは、まるで人ごとのようだ」
 男はふっと息を吐きながらフロントガラスの向こうをちらりと見やった。
「失礼ですが、お名前はなんて?」
 ネリネはもう一度眉をひそめた。
「なぜお聞きになるのですか」
「いえ、知人がよく話してくれる人と雰囲気が似てるので、もしかしたらと思いまして」
「知人、ですか。きっと人違いです」
「あなた、クラハシネリネさん?」
 ネリネは軽く目を見開いた。
「あなたは」
 ネリネは男を真っ直ぐ見つめた。頭の中でシミュレーションが始まる。スーツの色は黒。男の眼鏡を外し、髪型を変えてみる。チン、と結果がはじき出された。
「以前に会ったことがあります」
「そうでしたっけ」
 男はうっすらと微笑んだ。
 ネリネの脳裏に、今度はビジョンが飛び込んだ。
 ポーンという音と共にエレベーターの扉が開き、中から一人の黒っぽいスーツ姿の男が下りてくる。病院の職員とも、患者とも思えないその様子は薬品会社の営業マン。 
「あなたはエレベーターの前で……」
 ネリネが言い切らないうちに、男は突然ビンゴと呟くと、ネリネを車内に引きずり込んだ。抵抗する間も与えない。手慣れていた。男はネリネを助手席へ押し込むと車を急発進させた。


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