可児(かに)

2008/5/26


可児(図書)家

◎可児図書家・可児藤兵衛家ともに斯波義廉の後裔といわれ、美濃可児郡塩河村に住したので「可児」を氏とした。

初代 可児忠五郎秀行(?〜1584)

☆のちに「六郎左衛門」と改める。
☆永禄8年 森可成が美濃金山城主となった際に召し出される。
☆天正3年(1575)5月21日 長篠の合戦で主君森長可に従軍以来、身辺警護。
☆天正12年(1584)4月9日 長久手の合戦にて長可とともに戦死。
☆妻は細川藤孝家臣坂井下総女。
☆男子1人あり。「忠五郎」または「久内治良」という。伯父坂井越中(細川家家臣)の養子となったため可児家は断絶。

2代 可児忠左衛門(図書)盛行

☆坂井久内治郎の次男。秀行の孫にあたる。兄は坂井縫殿(細川家家臣)。
☆森忠政、細川忠興へ可児秀行の跡を立てたいと依頼したため、細川家より坂井久内治郎の次男盛行が遣わされる。
☆慶長20年(1615) 盛行、森忠政に仕える。
☆同年 盛行、忠政に供奉して大坂夏の陣に参戦〔可児家系〕。
☆同年 忠政、大坂役帰陣ののち盛行に新知300石を与える。その後たびたび加増あり。
☆寛永10年時点で600石〔実録16〕。
☆森長継の代に1300石に鉄炮領として600石賜り、大組御預にて仕置役並を勤める。
☆このころ「図書」と改める。
☆元禄10年3月時点で各務兵庫組、700石〔実録16〕。
☆元禄10年 津山藩改易後、因幡に至り「忠左衛門」と改める。
☆津山にあるときは実弟の九郎兵衛・忠兵衛を預かって面倒を見た。

●可児忠左衛門

☆忠左衛門盛行の子。
☆鳥取池田河内守へ仕える。

可児(藤兵衛)家

初代 可児忠五郎
☆細川家家臣坂井久内治郎4男。
☆はじめ細川家に仕えていたが、故有て牢人す。
☆次いで京極高知に仕える。
☆次に豊臣秀頼の家臣となるも、大坂の陣ののち兄可児忠左衛門盛行の許に身を寄せる。
☆兄可児盛行が森忠政に願い出て新知300石賜り、「可児」を称し、名も「弥五左衛門」と改名す。
☆法名「一統宗純居士」。
☆妻法名「一燈榮心大姉」。

2代 可児藤兵衛正幸

☆弥五左衛門の子。父の家督250石で町奉行を勤める。
☆森長俊分知の時、長継の懇望により500に加増され、長俊附家老となる。
以降は三日月藩侍帳 可児を参照のこと。