2008/05/26
◎来歴については津山・赤穂藩侍帳 可児を参照のこと。
初代 可児藤兵衛正幸 |
---|
☆可児弥五左衛門(津山藩可児藤兵衛家)の子。父の家督250石で町奉行を勤める。 ☆森長俊分知の時、長継の懇望により500に加増され、長俊附家老となる。 ☆元禄10年(1697)10月 津山藩改易後は、三日月に移り代々三日月藩森家の家老を勤めた(三日月藩士可児家の祖)。 ☆元禄12年(1699) 長俊の居所が播磨乃井野に定まるため同地に引き移る。藤兵衛正幸は当分佐用郡新宿村春名氏に居宅し、後に乃井野に屋敷を賜る。 ☆宝永2年(1705)7月27日卒。三日月村圓通山慶雲寺に葬る。 ☆法名「鏡智院一峰元帰居士」。 ☆妻は松崎弥左衛門三女。元禄7年(1694)12月3日没。法名「實相院乾室利貞大姉」、墓所美作津山。 |
2代 可児弥五左衛門正武(正由) |
☆幼名「九十郎」。「藤之丞」。 ☆実は松嵜弥兵衛吉重(浪人、備前岡山にて死去)嫡男。 ☆母が可児正幸に再縁したため、弟瀬左衛門(松千代)とともに可児家に入る。為に正由は藤兵衛正幸の家を相続す。 ☆寛保3年(1743)11月20日没。法名「本空院幻化露心居士」。 ☆妻は京都奥西氏女。享保8年(1723)10月9日没。法名「寂光院浄岳慧完大姉」。 |
3代 可児藤兵衛正儀 |
☆縫殿之助、藤兵衛。 ☆嫡子中より家老職を命ぜられる。 ☆多病につき御暇を願い、播磨揖西郡中ノ庄村に蟄居。 ☆安永6年(1777)2月17日没。慶雲寺に葬る。法名「雄林院英嶽了功居士」。 ☆妻は龍野藩重臣脇坂玄蕃安勝女。離別して実家に返りて没す。法名「春光院花嶽宗榮大姉」、墓所揖西郡片山村タク寺。 ☆長男傳作某(多助)は多病にて家督を継がなかった。61歳にて死去、慶雲寺に葬る。法名「光顔院慈心宗微居士」。 ☆次男・3男はいずれも早世。 |
4代 可児弥五左衛門正誠 |
☆藤之丞、源五左衛門、後に弥五左衛門。 ☆実は可児弥五左衛門正由3男。初めは津山松平家小嶋家の養子となり家督を継いで御目代役を勤めていた。 ☆兄藤兵衛正儀隠居に際し、嗣子がなかったため津山侯へ願い出て実家に帰り家督を継ぐ(津山小島家は養子を迎えた)。 ☆この際、石高が故有て500石から350石となる。 ☆寛延3年(1750)10月10日没。法名「見性院圓嶽宗心居士」、墓所慶雲寺。 ☆妻は京都北川氏女。延享元年(1744)7月24日没。法名「大圓院鐘嶽妙智大姉」、墓所慶雲寺。 |
5代 可児弥五左衛門正喜 |
☆孫三郎、忠次郎、弥五左衛門。 ☆実は津山松平家家中黒田要人一程3男。 ☆実母は津山松平家家中天方元賀の女。 ☆実父黒田一程は各務兵庫正氏の孫に当たる為、君命により可児正誠の養子となる。 ☆三日月藩老職たること50年にして隠居。 ☆文化14年(1817)11月27日没(80歳)。法名「大正院圓忠義明居士」、墓所慶雲寺。 |
6代 可児忠五郎正直 |
☆亀治郎、忠五郎。 ☆可児正喜次男。 ☆部屋住時代より御用役を勤め30俵を賜る。 ☆文化5年(1808)7月 父の家督を継ぐ。 ☆文化9年(1812)9月26日没。法名「天真院機峯道雄居士」。 |
7代 可児梅三郎馴 |
☆可児正喜3男。 ☆文化9年(1812) 兄正直死去の際、正直実子弥五之助幼少につき兄の養子に準じて家督を継ぐ。 ☆文化14年(1817) 主君長義9女「鶴」(4歳)を養女とし、弥五之助(藤兵衛家)へ娶せるよう君命あり。4月26日 鶴姫、乃井野着。 ☆文政2年(1819)春 兄正直の子、弥五之助に家督を譲って故可児伴右衛門の名跡を継ぐ。 →可児(伴右衛門)家参照 |
8代 可児弥五之助 |
☆可児正直嫡男。 ☆父死去の時、幼少につき叔父梅三郎馴が家督を継いだため、馴の養子となる。 ☆文政2年(1819)春 養父馴の家督を継ぐ。 ☆妻は姫路善教寺普聞女。 |
◎可児(藤兵衛)家分家
初代 可児伴右衛門某 |
---|
☆藤助、杢弥、伴右衛門。 ☆可児弥五左衛門正由4男。 ☆享保8年(1723) 父弥五左衛門正由の勤功により召出の内意を蒙る。 ☆享保10年(1725) 三日月藩森家に召し出され10人扶持を賜り、番頭役となる。 ☆江府勤番帰国の節に改めて新知100石拝領し、御用役となる。 ☆寛保元年(1741)6月9日没。墓所慶雲寺。法名「清凉院祥雲梁瑞居士」。 ☆妻は京都の人。元文4年(1739)9月7日没。法名「松壽院本岳壽性大姉」、墓所慶雲寺。 ☆嗣子なきにより知行返上(これにより一時断絶す)。 |
2代 可児梅三郎馴 |
☆可児正喜(藤兵衛家)3男。 ☆兄正直死去の際、正直実子弥五之助幼少につき兄の養子に準じて家督を継ぐ。 ☆文化14年(1817) 主君長義9女「鶴」(4歳)を養女とし、弥五之助(藤兵衛家)へ娶せるよう君命あり。4月26日 鶴姫、乃井野着。 ☆文政2年(1819)春 兄正直の子、弥五之助に家督を譲って故可児伴右衛門の名跡を継ぎ、改めて100石を拝領。年寄役となる。 ☆文政5年(1808)3月 「可児家系」を編纂す。 ☆森長義を補佐し、森長國の代に隠居。 |