----- 日々永遠に。




 コツン、と庭の方にある掃き出し窓から音がした。
 狩留家(かるが)氏は、それまで書きつづっていた文字の世界からふっと現実へ戻ると、窓の方を見た。
 いつの間に降り始めたのか、ちらちらと雪が舞い落ちる中、酷く真面目くさった顔をして彼女が真っ直ぐ狩留家氏を見つめている。その頬の紅さが外の寒さを物語っている。
 彼は中へ入るように促した。窓に鍵は掛かっていない。がたんとぎこちない音を立てて彼女が窓を開けると、刺すような風が部屋に舞い込んでくる。
 狩留家氏はこの瞬間が好きだ。凝り固まっていた脳内を一掃してくれるような、この上なく清い空気だと思っている。
 彼女は「よっこいしょ」と言いながら、子供一人が通れる分だけ開けた隙間から、四つん這いになって狩留家氏の仕事場へ入ってきた。もったいぶったように、はあっと息をつくと、雪のくっついたサーモンピンクのウールのコートを脱ぐ。そしていつものように、入り口の脇にある年季の入ったコート掛けに掛ける。
 彼女、深川すみれはぐるりと部屋を見渡した。前に訪れたときと変わったところはない。もはや畳を返すことなど不可能なほどこの部屋は物が溢れているが、すみれはそれが気に入っている。壁に取り付けられた天井まである棚と床に堆く積まれた書籍。それらが鬱蒼と座卓に座る狩留家氏を取り囲んでいる。座卓の脇にはメモが挟まれた本や資料が積まれていて、傍で石油ストーブの上のやかんがしゅんしゅんと音を立てている。藍染めの大島紬に包まれた、狩留家氏の広い背中を彼女はじっと見た。
 すみれは何も言わない。
 狩留家氏も特に何も言わない。既に、原稿用紙のマス目を埋め始めている。パソコンが普及している御時世だが、狩留家氏は原稿用紙を用いることをこの上なく愛している。書き進めたものを一瞥出来る利点もあるが、何より、如何にも「小説家」と呼ぶに相応しいアイテムだからだ。和服を着ることもそうだが、狩留家氏は案外見た目から入るタイプである。
 本当のところは、執筆活動を始めた若い頃には、パソコンだのワープロだの、そういった文明の利器が手に入らなかった為に、紙に書くという選択肢しか無かっただけである。容易に手に入る身分になったが、今さらそういった類の機械を扱うことがしゃくなだけなのだ。こういうところが狩留家氏は大人げない、とすみれは思っている。
「大人になっても作文を書くなんて、そんなに楽しいの?」
 ようやくすみれは口を開いた。
「作文ではないよ」
 狩留家氏は目を細めた。ふと思い立ったように、机の上にあるタバコに手を伸ばした。
「知ってるわよ」
 彼女は狩留家氏の脇にすとんと正座をして原稿用紙を覗き込んだ。紺色のプリーツスカートが足元にふんわりと広がる。
「こらこら、そんなに近付いちゃ、タバコの煙を吸い込んでしまうよ」
「それがどうかした?」
「健康に悪い」
「じゃあ、どうしてそんなもの吸ってるのよ?」
 すみれはタバコを咥えている狩留家氏をじろりと睨み上げた。
「ごもっとも。仰るとおりです」
「じゃあ、すぐに消しなさい」
「君には敵わないね」
 苦笑しながら狩留家氏はタバコを灰皿に押しつけた。狩留家氏の困惑した顔に満足げな笑みを浮かべて、すみれは再び原稿用紙を覗き込んだ。真っ黒なボブの髪が狩留家氏の腕をくすぐるように揺れている。手を袖に突っ込んで、狩留家氏は目尻に皺を寄せた。
 頬杖をついてすみれはフーンと呟いた。
「作文ではなかったら、これは『小説』というやつね。でしょう?」
「残念、これは『小説』ではないよ」
 口元をにやつかせて狩留家氏が答えると、案の定、すみれはくるりと狩留家氏の方を向いた。
「これは『エッセイ』というもので、雑誌に連載して貰っているんだよ。小説だけでは食べていけないからね」
「そうよね、たくさん本が売れているなら豪邸に住むはずだもの」
 そう言ってから、すみれは急いでママが言ってたのと付け足した。
「豪邸を持つほど本が売れてるとしても、古い日本家屋に住むのは僕の昔からの夢だからね。これだけは譲れないな」
 そう言うと狩留家氏は窓の外にちらりと目を向けた。雪は重たそうなぼたん雪へと変わっている。庭の椿がひらり、と落ちた。
「それに、ここは庭が広いから気に入ってる。鳥も遊びに来るし。それから君もね」
「鳥と一緒にしないで」
「気に入ってるから来るんでしょう?」
「……そうね、悪くはないわ」
 すみれは顔を背けた。
「どうかしたのかい?」
 ふいにその背中の陰に気がついて、狩留家氏は肘ですみれの身体をつついた。
「別に」
「学校で何かあったの?」
「何もないったら!」
 すみれは刺々しい声を上げる。狩留家氏はだったらいいけどと小さく呟いた。
 しばらく経って、彼女はようやく口を開いた。
「どうしてみんな子供なのかしら。ほんと、相手しているとうんざりするわ」
 おやおや、と狩留家氏は苦笑いを浮かべたが、すみれのプライドの高さは十分承知しているので、敢えて彼女もまだまだ子供であるという事には触れない。
「それにママは、私が何も知らない子供だと思ってバカにしてる」
「まあ、親にとって子供は幾つになっても子供だって言うからね」
「あなたも同じようなこと私に思ってやしないでしょうね?」
 すみれはじろりと狩留家氏を見上げた。狩留家氏は肩をすくめてみせる。
「みんながみんな、君のように物分かりが良い訳じゃないさ。それに案外、みんなも君と同じようなことを思っているかもしれない」
「そんなはず無いわ」
「どうしてそれが分かるんだい?」
「どうしてそんなこと言うのよ? 分かるの?」
「分からないさ。だから僕は“かもしれない”と言った」
 狩留家氏は伸びかけた顎の髭をするりと撫でた。
「あなた小説家でしょう? 分からないことがあっちゃだめだわ」
「分からないことがあるから僕は『小説』や『エッセイ』を書く」
 そう言うと、狩留家氏は真っさらな原稿用紙を一枚取り上げた。
「君もどうだい?」
「作文は嫌い」
「作文じゃない。ある物事について、自分の考えを書き綴るんだ。それが『エッセイ』というものだよ」
 澄ました顔で狩留家氏はそう言ってみせると、すみれはふぅん、と原稿用紙を見つめた。
「君みたいに人間関係に悩んだりすることは往々にしてあることだ。そういうときに、じっくり自分と向き合ってみるというのはなかなか乙なものですよ」
 はい、と狩留家氏に鉛筆を渡されて、すみれは複雑そうな表情を浮かべて受け取った。
「見ないでよ」
 狩留家氏が座っていた場所を陣取り、すみれは鉛筆を走らせ始める。狩留家氏はその小さな後ろ姿を目にやりながら、石油ストーブの前にしゃがむと冷えた両手をかざした。
 雪はしんしんと降り続けている。湯の沸く音と、鉛筆が紙を滑る音だけが静かに部屋に響いている。
 こういう光景が永遠に続くのも悪くない、狩留家氏は目を閉じてそう思った。
 もちろん、それは現実にはあり得ない。すみれがここに訪れるのは、日がな一日物書きをしているような、風変わりな暮らしをする四十に手が届こうかという優男への好奇心だろう。いずれ、彼女は成長し、年相応に誰かに恋をし、ここへは姿を見せなくなるに違いない。
 狩留家氏は立ち上がった。
「お茶にしようと思うけど、君は何がいいかい?」
「ココア」
 原稿用紙から目を離さずにすみれは即答した。
 狩留家氏が台所から戻ってくると、すみれは窓際にへばりつくようにして外を眺めていた。狩留家氏に気付くと、彼女は振り返った。
「すごいの。庭が真っ白」
 ほのかに湯気の立つココアを受け取ると、すみれはまた窓の方を見た。
「一晩中降り続けたら、この家は雪に埋もれてしまうかもね」
 狩留家氏も窓の外を見た。日が暮れかけて、雪の白さだけが際だっている。
「君、傘は?」
「平気」
「帰るときに僕のを使うといい。風邪を引いてしまうよ」
「そしたら、あなたが使うのがないでしょ?」
 大丈夫さ、と狩留家氏は笑った。
「もう書けたのかい?」
「書けたわ。この部屋のどこかに隠したから、見たければ探して」
 ココアを飲みながら、澄ました顔をしてすみれは言った。
「隠したのかい?!」
「そう」
 やれやれ、と狩留家氏は頭を掻きながら部屋を見回した。
「じゃあ、私もう帰るわ」
「おや、もうお帰りかい?」
「もう少しいてあげても良いけどね。ママが門限、門限って煩いから」
 すみれはサーモンピンクのコートを手に取った。
「手伝おう」
 狩留家氏はコートに手を伸ばす。すみれはコートを胸元に引き寄せると狩留家氏に背を向けた。
「一人で出来るったら」
「そうじゃないさ。こういうとき、淑女はむしろ紳士に手伝わせるものだよ」
 すみれの肩越しにひょいとコートを取り上げると、狩留家氏はすみれが腕を通しやすいように広げた。
「あなたは紳士って柄じゃないわ」
 そう毒づいてみせても、狩留家氏はにっこりと微笑んでいる。なんとなく落ち着かないような、決まり悪そうな顔をしながら、すみれは袖に腕を通す。
「たまには玄関からお入りよ」
 狩留家氏は窓の下で雪にまみれたすみれの靴を取り上げた。
「呼び鈴を鳴らしても気付かないじゃない。それに、私が来なければ、空気の入れ換えすらしないでしょ?」
「そうかもしれない」
 ほらね、と得意げに顎をくっと上げてすみれは玄関へ向かった。
「あなたってば、私がいないと何も出来ないんだから」
 狩留家氏に大きな黒い傘を渡されてすみれは帰っていく。
 積もった雪に足を取られないようにひょこひょこと歩くすみれの後ろ姿を、狩留家氏は玄関先で見送った。
「やれやれ……、一体どこへ隠したやら」
 部屋に戻ると狩留家氏は腕組みをした。
 注意深く見渡すと、ある積み重ねられた本の群に目が止まる。うっすらとほこりが積もっている部分と、そうでない部分がある本を狩留家氏は手に取った。
「推理小説家をなめてもらっちゃ困る」
 本をぱらぱらと捲ると、綺麗に折り畳んだ原稿用紙がはらりと落ちた。それを拾い上げると、狩留家氏は座卓の前に座った。

『――私が大人になるまで、狩留家氏が歳を取らなければいいのに』

 ふいにそういう一文が目に飛び込んで狩留家氏は、誰に見られているわけでもないのに慌てて咳払いをすると、人目をはばかるようにお茶を飲んだ。
 狩留家氏は今のまま時が止まればいいと思っていた。互いに抱く感情が、好奇心以上のものであったとしても、わざわざ昇華させる必要はないだろう。彼女がひょっこりと窓から顔を覗かせてくれるならば、曖昧な関係でも構わない。むしろ充分だった。
 だが、どうも彼女はそうではないらしい。いったい親子ほども歳の離れた男のどこが良いのやら。そう自分を卑下してみるが、まんざらでもなかった。
 待つだけなら狩留家氏はいつまででも待てると思っている。
 狩留家氏はふうっと息をつくと窓の外を見た。雪は絶え間なく降り続いている。
「やあ、あなたには完敗ですよ」
 狩留家氏はそう呟くと、すみれの恋文を丁寧に折り畳み、引き出しの奥にしまい込んだ。
 このまま、密やかに。
 それが本物かどうか見極めるのは、まだ先で良い。
 穏やかに、続いていけばいい。
 日々永遠に。




                                - 終 -


back    index    next


Copyright (C) 2004 Mutsu Kisaka All Rights Reserved.