----- 汝の罪人を愛せよ


   >>> 8


 ベッドの上に座って、妃奈子は注意深く携帯番号を押した。呼出音は五回目で途切れた。
『ハイ、保苑です』
 そのあまりにも事務的でつっけんどんな第一声に、妃奈子は思わず携帯の電源ボタンを押しそうになった。機嫌が悪そうな雰囲気に一気に気が咎める。もしかしたら仕事が立て込んでいて忙しいのかもしれない。妃奈子は恐る恐る喋り始めた。
「もしもし、及川です。あの…」
『及川?!』
 途端に素っ頓狂な声が聞こえて、妃奈子は携帯を耳から遠ざけた。
『どうした?』
 今度は一転して、どこか周囲を憚るような抑えた声が聞こえた。幾分、声も優しくなったような気がする。顔が見えないだけに妃奈子はますます焦る。見られているわけでもないのに、つい正座して居住まいを正してしまう。
「あの…、あの」
『ん?』
「あの、スーツが」
 そこまで言って妃奈子は大きく息を吐いた。間をおいて幸がああと呟いた。
『分かった、取りに行くよ。いつがいい?』
「そんな!」
『は?』
「いや、じゃなくてっ、あたしは夏休みだし、センセイはお仕事してるし、忙しいし、だからセンセイの都合のいいときで、ていうかあたしが持っていっても、ううん、持って行くべきで」
 そこまで一気に言ってしまってから、顔がどっと熱くなる。思わず「は」と小さな声が漏れた。
「…あの、いいときでいいです」
 あたし何言ってるんだろうと妃奈子は自分自身にツッコミを入れる。その間、受話口はしんと静まりかえっている。妃奈子はいたたまれなくなってきた。きっとアホな子だと呆れ返られたに違いない。やっぱりかけたタイミングが悪かったのかも、と妃奈子がぐるぐると頭の中で考えを巡らせ始めた時、急に豪快な笑い声が響いた。
 妃奈子は呆気にとられて、しばし茫然とした。
 …ナンデ? 
 正座した膝の上に置いた手をぐっと握りしめる。
『あー、ごめん。いや、面白いねぇ』
 しばらく笑い声が続いた後、それでも必死に堪えつつ、という感じでやっと幸が話し始める。
『とにかくクリーニング上がったっていうことは分かったから。いいよ、俺が取りに行く』
 うが、やっぱりアホな子だと思われた、と妃奈子はうなだれた。
「ごめんなさい…」
『別に謝らなくても。夏休みだからこそアナタはいろいろ予定があるんじゃないの?』
「別にないもん」
『へー、そうなんだ? せっかくの青春がもったいないねぇ』
 またくっくと笑い声が聞こえる。遊ばれているのは分かっていても、なぜか強く出れない。このままずっと喋り続けてくれていたらいいのに。妃奈子は心の中でそう願った。
『えーと、じゃあ明日、一時にこないだの駅で。オーケー?』
「おっ、おーけー、です」
『慣れない敬語なんて使わなくていいよ』
 またくすくすと笑い声がしてそれじゃあ、とあっけなく電話は切れた。
 妃奈子は一気に肩の力が抜けた。かちこちに体を固くしていたことに気がつく。今までこんなに緊張したことがあっただろうか。
「ああ、もう、ばかみたい」
 その場に突っ伏すようにして妃奈子は呻いた。そのままの体勢で妃奈子はしばらくさっきまでの会話を反芻する。
 明日、一時にこないだの駅で。
 思わずふふっと笑みがこぼれる。起きあがると隣の部屋を区切る壁にふと意識が行った。隣は塙志の部屋で、そこは今もそのままになっていた。急にそこから重苦しい圧力のようなものを感じて息苦しくなる。
 妃奈子は部屋を飛び出した。


◇ ◇ ◇


 午後0時50分。
 待たせるつもりはないけれど、待つつもりもなかった。浮き足だっていつもより早足だったのかな、と妃奈子は溜息をついた。
 デートの待ち合わせみたいだ。
 妃奈子は駅前の改札の脇に立って、行き交う人たちを眺めながらそう思った。早く来て欲しいけど、もうすぐ来るという期待で膨れ上がる高揚感に浸っていたい気もする。デートはしたことがないけれど、待ち人を待つときの気分はこんな感じなのだろうかと、妃奈子は一定の間隔で人が溢れ出す度にそわそわと目を泳がせる。
 そうは言っても今日の自分の服装はキッズサイズのポロシャツにローライズのブラックジーンズだ。少なくともデートのためにおしゃれしてきましたとは言い難い。
 スカートにすればよかったかな、と今更ながら思ってみる。
 真夏の午後1時の日差しでアスファルトは陽炎がゆらゆらと立ち上っていた。上着は二つ折りにして余裕があるくらいの大きさの紙袋に、クリーニングから引き取ったままの状態でハンガーを袋の口端に掛けて入れてある。それを持て余しながら妃奈子は時間を確かめるために携帯を取り出した。
 午後1時5分。
 行き交う人達の目が時折興味深げに自分に注がれるのに気付いて、妃奈子はにわかに全身に緊張が走った。同い年くらいの男二人連れが、薄ら笑いを浮かべてこちらを見ながら改札を抜けていったときには、足下に目線を移したまま動けなくなった。
 もう妃奈子には一分でもこの場にいることが耐えられそうになかった。だんだん息苦しくなってくる。
「どうした?」
 携帯の画面を見つめたまま、俯いていた妃奈子は突然声を掛けられた。びくっと体が揺れる。そっと顔を上げると、幸が前髪を掻き上げながら済まなさそうに笑っていた。
「遅れてご免なさいねー、途中の乗り換えが上手くいかなくてさ」
 話し方は悠長なもののホームから改札まで駆け足で来たのか、幸は大きく深呼吸をした。それが自分の為なのか、幸自身の日頃からの行為なのか妃奈子には分かりかねたが、目の前に幸がいることに安堵の息が漏れた。
 前回会った時と同様、幸はネクタイを緩めてシャツの袖をまくり上げていた。上着を手にして、眩しそうに空を見上げている。その姿が妃奈子には余計に大人に写った。そういえば教生として学校に来ていたときは、きっちりとスーツを着ていたような気がする。そのせいで充分大学生に見えていたが、恐らくどことなくくたびれた感じがするこの姿が本物なのだろう。
 妃奈子がしげしげと幸に見入っていると、それに気付いたのか顔を妃奈子の方へ向けてきた。今日もクソ暑いよな、と幸は目をふっと細めた。その表情にどう返して良いか分からず、妃奈子はぎこちない笑みを浮かべた。
 再びついさっきまで考えていたことがよぎる。別にこれはデートじゃない。分かってはいても顔が火照ってくる。妃奈子は顔を見られたくなくて俯いた。
「具合悪い?」
「えっ?」
 再び顔を上げる。かがみ込むようにして覗き込んだ幸と目があった。
「顔赤いから。熱でもあるの? しんどいならまた今度にするけど」
 妃奈子は慌ててぶんぶんと首を振る。幸はそれならいいけどと顔を上げた。
「あ、あの。また今度って、これ渡したら用事はおしまいでしょ?」
 言ってからしまったと思った。これではさっさと用を済ませて帰りたいと言っているようなものだ。かといって、この間のようにどこかでお茶でも、とは自分の口からは言えない。妃奈子は幸を見上げたまま、手を握りしめた。手の中でじんわりと汗が滲む。
 しばらく何か言いたげに妃奈子を見つめていた幸の口元が不意に緩んだ。妃奈子はきゅっと心臓が縮みそうになりながら幸の言葉を待つ。
「まあ、そうだけどね。暑いけどちょっと散歩でもしない?」
 妃奈子は目を軽く見開いた。こくこくと何度も頷くと幸がくすっと笑った。さて、と呟いて幸は妃奈子の手から紙袋を取ると肩に引っかけて歩き始める。妃奈子は慌ててついていく。

 ぶらぶら歩く道すがら、幸は学校の様子や神田のことを尋ねた。
「でね、神田先生、時々センセイのこと話してるよ」
「ちょっと待った、もういい加減にそのセンセイってのやめて」
 幸が目を細めて軽く睨み付けると、妃奈子はだってと口を尖らした。
「だってもへちまもないの。そんな呼ばれ方されるとすっごい自分が胡散臭い人間に思えてくるから、以後禁止」
「なんで?」
「世の中、『先生』と呼ばれてる連中と警察にはロクなのがいないって決まってんの」
「警察もなら同じだと思う」
 妃奈子は頬を膨らます。
「胡散臭い肩書きは一つで結構。言ったらケツ叩きな」
「セクハラ刑事ー」
 妃奈子が幸から一歩離れて非難の声を上げる。片方の眉をぴくりとあげて、ほほうと幸が呟いた。妃奈子はそれには構わず一人で納得してふふんと笑った。
「センセイが駄目ならセクハラ刑事って呼ぶ」
「言ってくれるじゃないの。じゃあ期待に応えましょうかね」
 両手を上げて、熊が人間を襲うような仕草で幸は妃奈子に向かってうがーと吠える。妃奈子は笑いながら逃れるように駆け出すがすぐに立ち止まった。幸は怪訝な顔をして両手を下ろしかける。
「あっ、手はそのまま、ストップ」
「なんで」
「いい感じで日陰が…」
「アンタねー」
 呆れて手をだらりと下ろした幸に、妃奈子はあーあと残念がりながらも楽しそうに笑った。そんな妃奈子を見て、幸はくすっと小さく吹き出した。穏やかな顔つきでタバコを咥える。
「そんで、神田先生が何だって?」
 幸の2、3歩先を歩いていた妃奈子がえ?、と振り返る。
「えーと、そうだ。こないだもテスト返しながら『お前ら幻の教生の時に見せてた真剣さは何処いった』って」
「幻の教生ねえ…」
 幸は苦笑する。
「みんな本気でウチのガッコに来ないかなって思ってたんだもん」
「ああ、それはザンネンでした。お陰で教師なんてやってらんない性分だってよーく分かったわ」
 妃奈子は不思議そうに幸を見上げる。幸はそう言うが、授業は面白かった。今にして思えば、刑法なんて仕事の裏話を暴露していただけなのだろう。だが、普段はぼんやりとしか話を聞いてない妃奈子も珍しくちゃんと聞いていたくらいだ。教師でも充分やっていけるのにと妃奈子は思った。
「あんなテンション高い連中と毎日顔つき合わせてやってけないって」
「テンション? 高い?」
「その中にいるときには気づけないもんなんだよ」
 幸はにやりと笑った。つまり子供だってこと、と暗に言われたような気がして妃奈子は軽く眉をひそめた。何か? と問うような幸の見下ろす目に妃奈子はふいっと目を逸らす。あははと幸が笑った。

「…やっぱり、ダメなのかな」
 しばらくして妃奈子が唐突に口を開いた。
「なにが?」
「本気で人を好きになったら、って」
 その言葉に幸は目を見開いて妃奈子を見下ろす。
「センセイだったら、一緒にいて楽しいなって思えるのに」
 強く訴えるような目を向けられて幸は立ち止まった。戸惑うように僅かに目線を泳がすと、幸は誤魔化すように呟く。
「…また言った」
「え? あ…」
 幸は溜息をついた。
「アナタがあんまり会話を交わさないだけで、誰とだって大して変わんないと思うよ」
「…変わるよ。他の人は怖いんだもん」
「へぇ、怖いって認めるんだ?」
「だって、セン…ほ、ほそ」
 妃奈子は一度きゅっと口を閉じる。
「あたしの、そういうことも、知ってるでしょう?」
 妃奈子は再び真っ直ぐ幸を見上げた。幸はその視線を振り払うように顔を逸らす。
「…あのね、ダットンとアロンの吊り橋の実験って知ってる?」
「え?」
 キョトンとした顔をすると妃奈子は首を横に振る。
「ぐらぐら揺れる吊り橋の上にいる男に向かって女が質問をする。揺れない橋に比べて、揺れる橋の方が男が女を好意的に思う割合が大きいって有名な実験」
「よく分かんない」
 妃奈子は眉間にしわを寄せた。幸はそれまで咥えていただけで火を付けていなかったタバコにライターを近づける。
「じゃあ、ジェットコースターでもお化け屋敷でもいいや」
 それでも妃奈子はピンとこないのか、小首を傾げた。幸はふーっと長く煙を吐いたあとでさらに続けた。
「人間は恐怖なんかで興奮状態に陥ってる時に異性に出会うと、その興奮を恋愛感情だと錯覚して異性に惹かれてしまいがちなんだとさ。それがさっきの吊り橋の実験」
「あたしも、そうだって言うの?」
 妃奈子の足が止まった。頭に向かって血が上っていくのが手に取るように分かった。息をするのも苦しいほど、心臓が激しく脈を打つ。
「俺はそうだと思うよ」
 立ち止まったまま、動けないでいる妃奈子に、振り返ると幸は静かに言った。
「だってアナタはそれ以外にどんな感情があった?」
 妃奈子は何も言えなかった。自分が幸を思う気持ちは錯覚だと言うのか? ジェットコースターやお化け屋敷と同じように、一時的なものに過ぎないのだと。幸は真っ直ぐ妃奈子を見つめている。今すぐにでも冗談だと言って欲しかった。だがその瞳には偽りのかけらも見られない。
 そうじゃないはず、幸に対する気持ちはそういった類のものではないはずだ。事件から大分経った今だって、側にいるだけでめまいがしそうなのに。初めは気のせいだと払拭しようとしたのに、どんどん想いが強くなっていく。もどかしいほど自分の気持ちがコントロールできない。こんなことは初めてだった。
 妃奈子は幸の言葉を頭から払いのけようする。だが小さく息を吐くのがやっとだった。
 妃奈子の悲愴な顔を見て、幸は開きかけた口を閉じた。
「…行こう」
 促すように幸は言って歩きかけたが、妃奈子がついてくる気配はない。振り返ると妃奈子はその場に立ち止まったままだった。一歩でも動けば目から涙がこぼれ落ちそう、そんな様子だった。
「ごめん、言い過ぎた」
 幸は顔をしかめると溜息をついた。
「ただ、別に俺である必要はないんじゃないかって…」
 妃奈子は涙がこぼれそうになるのを懸命に堪えようとして、唇を強く噛みながら幸を睨み付けるように見上げた。吊り橋の上の恋などではないと言い返したかったが、今は迂闊に口を開くと言葉と一緒に涙まで出てしまいそうだった。そんな状態の自分が情けなくてますます涙がこぼれそうになる。
「ああ、ホント、悪かったよ」
 幸は後頭部をかりかりと掻きながら唇を噛む。しばらく考えるような素振りを見せていたが、妃奈子に向かって手を差し出した。それまで体を固くしていた妃奈子が驚いてふっと力を緩める。幸は困惑して口を尖らせた。
「大変オトナ気ありませんでした。頼むから、もう行こう。こんなことのために歩いてたわけじゃなかったんだからさ」 
 幸は誘うように手を振る。少しばかりためらっていたが、妃奈子は手をそろりと差し出した。幸はその手をぐっと握ると歩き始めた。
 てっきり仲直りの握手か何かと思っていた妃奈子は、まさか手を引かれるとは思いもせず、そのまま幸に引っぱられて転びそうになる。
 日差しを遮るものも僅かで、二人の足下には濃い影が出来ている。その影が一本のロープで繋がっているようにみえた。
 二人とも押し黙ったまま、歩き続けた。
「ごめんなさい」
 妃奈子は俯いたまま小さな声で言った。怒っている、そう思った。幸にしてみれば自分みたいな高校生に言い寄られていい迷惑だったはずだ。自分は事件の被害者、それだけにすぎないのに。しかも不覚にも泣きそうになってしまった。きっと鬱陶しがられたに違いない。こうして手を引いているのだって、半ベソの子供をあやすのと同じなんだろう。そう思うと、妃奈子はますます自己嫌悪に陥った。もう一度、消え入りそうな声で本当にごめんなさいと謝った。
「何を謝るの?」
 静かな声で幸が返した。妃奈子はふるふると首を振る。幸が小さく溜息をついた。
「アナタが謝ることないよ」
 そう言うと、幸は握っていた手にほんの少し力を入れた。妃奈子の心臓がトクンと跳ね上がる。そっと顔を上げると幸が様子を窺うように見下ろしていた。慌てて目を逸らせた。逸らした先の道に気付いて突然、妃奈子の足が止まった。今度は幸の体が後方へ引き戻される。どこへ行くともなしに歩いているようにみえたが、実は初めからここへ来ることが目的だったのだと妃奈子は気付いた。 
 長い間あの場所へと続くこの道は避けていた。それでも、今ここに立っただけで塙志の顔が瞬時に浮かんだ。忘れたくても忘れようがないのだ。妃奈子は俯いた。 
「怖いのも分かる。思い出したくないのも、よく分かるよ」
 頭上から落ち着いた低い声が聞こえる。
「今日はごめんな」
 溶けそうなほど暑いのに、背筋がぞくぞくと凍り付いていくようだった。思わず振り解こうとした手を、幸がぐっと握った。
「俺を本気で好きだって言うなら、行こう」
 妃奈子は弾かれたように顔を上げる。ずるい、と思った。
「悪夢を終わらせたいとは思わない?」
「また悪夢を見なきゃいけないのなら、終わらなくていい」
 妃奈子は眉をひそめると震える声で呟いた。


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