----- 汝の罪人を愛せよ


   >>> 7


 幸は建物を見上げ溜息をついた。
 自分の希望通りに、妃奈子の件を担当している神奈川県警の管轄である署の前に立っているのだが、こうして実現してみると何だか空恐ろしい。
 妃奈子が通学で利用する最寄り駅は神奈川県にある。実際に事件が起きた場所は神奈川県なので本来なら幸が介入することは難しい。だが幸か不幸か妃奈子の家は神奈川県に食い込むように存在する東京都にある。そのために合同で捜査を行っていた所轄署に手を回して潜り込めたのだ。
 潜り込める隙が運良くあったとはいえ、少々出来過ぎな気もする。蓼倉のコネはいったいどこまで通じるようになっているのだろう? 彼に関する人物相関図を作ってみたら、とんでもないところにまで繋がっていそうな気がする。策士のごとくにんまりと笑う蓼倉の顔を思い出して幸は小さく身震いをした。
 自分にまとわりついているモヤモヤとしたものを振り払うように首をぐるっと回すと、意を決して建物内へ入る。
 刑事課へ通されると、待ちかまえていたように女性刑事が立ち上がった。ショートカットにパンツスーツというマニッシュな装いだが、童顔が甘さを引き出して絶妙なバランスで魅力を引き出している。歳は自分と同じくらいだろうか。佐久間とは別の意味で刑事には見えないと幸は思った。
「お待ちしてました。今回の件を担当している加東祐理香(かとうゆりか)です」
「どうも、保苑です」
 幸は勧められて応接セットのソファに座った。 
「今頃になって所轄ではなくて警視庁からいらっしゃるなんて、どういう風の吹き回しかしら?」
 加東はこれまでの資料をテーブルに置くと開口一番に言った。
「例の事件と何か関わりが? だとしてもこの件との関連性が掴みかねますが」
「関連なら…、及川妃奈子、それだけですよ」
 幸は苦笑しながらタバコに火をつけた。
「あの件で彼女に関わったのでね。何か進展があるかもしれないということで所轄にいた担当者からバトンタッチしただけです」 
 加東は静かに眉をひそめた。
「進展ですか。残念ながら彼女からは何も引き出せないと思いますよ」
「…心因性健忘症ですか」
「あら、ご存知なんですね」
「得られる限りの情報は得てきたんで」 
 幸の前に資料を突き出すと加東は腕組みをしてソファに体を預けた。幸は調書に目を通し始める。
「当時の記録です。当時も今も、肝心なことは分からずじまいです」 
 自嘲するような物言いに、幸は調書に向けていた目を加東の方へ向けた。
「どうしてまた」
「目を通されれば分かります」
 幸はふっと息を吐くと目線を戻す。

 読み進めていくうちに幸の眉間にしわが寄り始める。
 都内の私立高校に通っていた塙志は、近所でも品行方正な少年として有名だった。今回はそれがあだとなったらしい。無理もないだろう。学校帰りにまだ中学2年生の妹が高校生らしき男達にからまれているところへ居合わせたのだから。
 その犯人達と妃奈子の間に入った塙志は殴る蹴るの暴行を受ける。妃奈子が止めに入ろうにも犯人のうちの一人に腕を掴まれ、口を塞がれて身動きすら取れない。そのうち、塙志は暴行からなんとか逃れて妃奈子を奪い返すが、それが精一杯で妃奈子を庇うように倒れ込んだ。しかし犯人達は尚も塙志を蹴り続ける。やがて塙志が大量の血を吐いたところで我に返ったのか、犯人達は逃走した。
 逃走間際に頭部を蹴られたのか、妃奈子は一時失神していたらしく、救助を求めることもままならなかったようだ。現場は道路からは見通しの悪い公園の敷地内で、たまたま公園内を通りがかった人が居なければ、おそらくそのままだっただろうと言われている。
 妃奈子を庇ったまま、塙志は息絶えた。発見者の介助によって妃奈子の意識が戻ったときには、地面を血に染めて既に塙志は冷たくなっていた。塙志の死因は殴打による内臓破裂だった。
 妃奈子の状態が安定した後、事情聴取が行われたが妃奈子が事件当時の記憶を失っていたために催眠術が行われていた。しかしそれによって分かったことといえば、このように如何にして塙志が殺されたかということだけだった。まるで再現フィルムのように、淡々とその時の様子が妃奈子の口から語られたことが調書に記録されていた。
 不思議なことに、肝心の犯人の容姿に関することは曖昧で、はっきりとした事柄は掴めなかった。 
 だが妃奈子が語る内容の余りの生々しさに、捜査員は口述をテープに録音していたこともあり、その記憶を再び封じることにしたのだという。

「犯人だけが思い出せないのか」
 幸は調書を一通り読み終えると溜息をついた。加東は吐き捨てるように呟いた。
「まるで意図的に記憶を操作したみたいにね」
「催眠状態にされててもそんなことが出来るんですか?」 
 幸は目を細める。加東は一言、さぁと答えた。
「おまけに彼女はあれ以来、男性恐怖症だと言うでしょう? なので必然的に私が担当なんです」
 そこまで言って加東は不思議そうな顔をする。
「彼女と関わりがあったって仰いましたね」
「ええ、そうです」
 幸はうっすらと笑った。
「本人曰く、僕は平気なんだそうですよ。それでもいくらか恐怖心を抱いていることには変わりないようですがね」
 加東はしげしげと幸を見つめた。一見端整な顔立ちだが、それが妃奈子の恐怖心を軽減する理由になるとは思えない。中性的な雰囲気があるわけでもない。どちらかといえば、長身の幸は威圧感を与えるはずだ。
「珍しいこともあるものなのね。どちらにしても今の彼女は捜査に非協力的です。それを心得ておいて下さい」
「ええ、それは充分に」
 幸は立ち上がった。資料をまとめながら加東も立ち上がる。
「この事件はお蔵入りするんじゃないかしら」
 ふいに加東は呟いた。訝しげな様子の幸に気付くとごまかすように笑みを浮かべる。
「なぜかそんな気がしてならないんです。個人的見解ですので聞き流して下さい」
「あなたがそう思ってる限り、そうなるでしょうね」
 幸の顔から笑みが消えた。突き放すようにそう言うと加東の口元がぴくりと引きつる。
「また来ます」
 冷ややかな目で加東を見下ろすと幸は部屋を後にした。


◇ ◇ ◇

 
 それから後日、幸は都内の住宅街を歩いていた。
 看板もなにもないのでそこは一見、普通の住宅にしか見えない。本業が大学院の教授ということもあってか、昔から積極的に人を集めるようなことはせず、ひっそりと開かれていた。
 幸は門戸を開けて庭の方へ回る。緑の多い庭を進むとそこへは玄関とは別に、サンルームのような形で来訪者を迎え入れる入り口になっている。戸は開け放されていて部屋の奥では机に向かって白髪の男が書き物をしていた。
「村上(むらかみ)先生」
 幸は控えめに声をかけた。村上先生、と呼ばれた男は振り返ると一瞬驚いた表情を見せたものの、すぐに破顔して彼を迎えた。
「幸君、いらっしゃい」
「久しぶりです。今、大丈夫ですか?」
 村上に上がるよう勧められて、幸は素直に靴を脱いだ。
 大学へ進学した頃から、幸はアポを取ることをやめた。思い立ったときにふらっと訪れる。先客がいれば別室で幾らでも待つ。時にはそのまま話もせずに帰ってしまうこともあった。話をしに来るというよりも、ここへ来ることだけが目的の場合がほとんどだったので、村上も幸に限っては不意に訪れても何も言わず迎え入れた。
「仕事はあらかた鞠子(まりこ)に譲っちゃったからね。今は何校か大学へ特別講師として行く以外はぼちぼちってところだよ。今日はもう予約はないし」
 村上は幸に麦茶を差し出しながらそう言った。幸は所在なげに辺りを見回す。その姿を見て、目を伏せながら微かに笑うと村上は続けた。
「仕事は相変わらずなのかな」
「ええ、まあ」
「そう。君の場合、閑古鳥が鳴く方が世の中としてはいいんだろうけど」
 幸は静かに笑った。麦茶を一口飲む。昔から、ここを訪れると夏には麦茶、冬にはほうじ茶をまず出される。それは今も変わらなかった。
「あの、ここへ女の子来ませんでしたか」
「女の子?」
 村上は意外そうな顔をした。
「及川妃奈子という高校生なんですけど」 
「鞠子の方かな。でも君からの紹介ならあの子が黙ってるはずないしね。来ていないんじゃないかな」
「そうですか」
 幸は小さくそう言うと、庭の方を見た。
 確かに妃奈子のあの様子じゃ素直にここへ来るとは思っていなかったが、それでも心の片隅で、もしかしたらという期待感はあった。
「幸君?」
 ぼんやりと考えを巡らせていた幸は、はっとしたように村上の方を振り返った。
「いえ、来てないならいいんです」
「本当はよくはないんだろう?」
 見透かすような村上の瞳に幸は困ったように笑った。
「君が人をここへ寄越そうとするなんて初めてだもの」
「そうでしたっけ」
「何があったのかな」
 そこで幸は妃奈子とのこれまでの経緯を手短に話した。
「…なるほどね」
「強要しちゃいけないってのは分かってるんですけど」
「君が自分を見ているようで辛いのは分かるよ」
 幸は村上の方へ顔を向けた。村上は穏やかに笑う。
「いや、俺は…」
 言いかけて、幸はポケットに手を突っ込んだ。
「あの、タバコいいですか?」
「だーめ。僕が肺を患ったの忘れたの?」
「…ああ、そうでしたね。すみません」
 幸はごまかすように小さく咳払いをした。
「彼女は君を必要としてるんじゃないのかな?」 
「ほんとにそうでしょうか」
 幸は村上を真っ直ぐ見つめて言った。村上はそれには答えず、ただ微笑み返しただけだった。


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