----- 汝の罪人を愛せよ


   >>> 4


 妃奈子は自分の部屋のベッドに寝転がってぼーっとしていた。寝返りを打つとクーラーの効いた部屋とはいえ、髪の毛が巻き付いてきてうっとおしい。妃奈子は髪を振り払いながら顔をしかめた。
 夏休みという言葉だけで、気温が一度高くなったのではないかというくらい外は蒸し暑かった。妃奈子の部屋の窓から目と鼻の先に立っている木では、さっきからひっきりなしに蝉が鳴いていて、余計に暑さを強調する。
 早めに取りかかってしまおうと机の上に課題を積み上げてみたものの、その量の多さに辟易してしまっていた。何もする気になれずにベッドから恨めしそうに見上げるだけだ。妃奈子は溜息をついて寝返りを打つと、自分の脇にあるメンズの時計に気がついた。取り上げて顔の上で眺めてみる。クロノグラフのごついデザインのそれはずっしりと重い。黒い革ベルトの一番奥の穴でも妃奈子の腕にはまだ大きかった。
 妃奈子が普段付けている穴とは別の、しばらくそこが使われていただろうと思われる、皮の摩耗した跡を何となくいじるのが妃奈子のクセだった。そこの穴に留め具を合わせると、妃奈子よりかなり腕が太いことになる。というよりも、むしろ妃奈子の腕の方が細すぎるのかもしれない。

 ふと妃奈子は机の下の奥に追いやられるようにして置かれている紙袋に気がついた。途端にどきんと妃奈子の心臓が波打つ。飛び起きると妃奈子はそっとその紙袋を引っぱり出した。あの日以来、返そうと思っていたのにどさくさに紛れてそのままになっていたことを妃奈子は思いだした。
 中にはあの時のまま、男物のスーツの上着が入っている。
 取り出すと、タバコの匂いが微かに広がった。それだけで妃奈子は胸が締め付けられそうになる。注意深く広げてみる。片側の裏地に点々と黒っぽく固まったものが染みついているのはおそらく妃奈子の血だろう。
 そして袖口にかすれたように残っているのは、切られた頬を拭ったときのものだろうか。
 妃奈子はその部分をそっと触れた。
 触れながら、急にその持ち主に会いたいと思った。彼は妃奈子の心の扉の鍵だけを開けて去ってしまったようなものだった。だが今度再会することがあれば、間違いなくその扉は開けられてしまうだろう。そう分かっていても妃奈子は会いたいと思った。
 今度はおもむろに上着を広げてみる。妃奈子の父親も死んだ兄も中肉中背よりは高い部類に入るのだが、それでも父親のものよりはずっと大きいような気がする。妃奈子は何を思ったか、立ち上がるとそれにそっと腕を通してみた。肩の部分もずっぽりと落ち込んで、妃奈子の手は爪の先しか覗かない。丈も腿の中程まで覆われて、ちょっとしたミニスカートのようになった。妃奈子は思わずくすりと笑う。
 なんとなく抱きしめられているような安堵感を覚えて、妃奈子はそのままベッドに寝転んだ。
 これを返す口実にすれば、会えるのかもしれない。でも返してしまうと彼との繋がりはそれきり消えてしまう。
 妃奈子は眉間に軽くしわを寄せると目を閉じた。匂いに意識を集中させる。嫌いではない匂いだ。香水の類が香ってくるわけではない。純粋にタバコと体臭の混ざり合った匂い。ふと、ああこれがフェロモンというものなのかも、と妃奈子は考える。
 友達はみんな、彼のちょっとした言動にも大袈裟に騒いでいた。初めは気でも触れたのかと妃奈子は呆れたが、今なら何となく分かるような気がする。
 幼さが残る顔立ちにきりりと引き締まった表情は確かにカッコイイ。それをうち崩すように時折見せる、子供っぽい笑顔を知ってしまうとなおさらそれが引き立つ。それを知っているのは自分だけかもしれない。あの顔を見たらみんな絶対卒倒するに違いない。
 それからあの目も。全てを射抜くような澄んだ目が印象的だった。日本人にしては幾分色が薄い茶色の瞳はどこか外国の男の子を思わせる。同じく茶色がかった髪の毛もそうだ。妃奈子よりはずっと年上のはずなのに、かわいらしい感じがした。男の人、というよりは男の子、という表現の方がしっくりくる部分が多かった。
 妃奈子がこれまで会った男の人は、たいてい何か含んだような目つきだった。男嫌いと言われている妃奈子に、自分こそは気にいられようとしている魂胆があからさまに見える態度で接してきた。そういう人たちに対峙するたびに妃奈子は壁を厚くしてしまう。いっそ透明人間だったら良かったのにと何度思ったろう。
 だが彼の場合はそんな様子がかけらもなかった。妃奈子が呆気にとられるくらい、彼は冷めた態度で妃奈子に接した。どこか人をからかうような物言いに振り回されつつも、どんどん引き込まれてしまう。その中に時おり含まれる気遣いに気が付いたときには、もう完全に落ちていた。
 妃奈子は目を開けた。
 あれからずっと考えていた。
「これは恋だ」
 妃奈子は呟いた。声にした途端、にわかに顔が強張った。
 そして起きあがると慌てて上着を脱いで畳み始めた。


「あら、ヒナ。それどうしたの」
 妃奈子が上着を紙袋にしまおうとした瞬間、母親が洗濯物を持って妃奈子の部屋に入ってきた。妃奈子の体がびくっと揺れた。
「なんでもない」
「なんでもないじゃないわ。誰の?」
 母親に咎めるように言われて妃奈子は見上げた。
「…刑事さんの」
「刑事さん?」
 母親は眉をひそめた。
「多分、助けてもらったときからそのままになってたみたい。さっき気が付いたの」
「どうしてママに言わないの」
「だから、さっき気が付いて…」
「お返ししなくちゃ。クリーニングに出すからママに貸して頂戴」
 妃奈子は母親が伸ばしてきた手から紙袋を引き離した。
「ヒナ?」
「あたしが持っていく」
 妃奈子は紙袋をぎゅっと抱きしめる。母親は怪訝そうな顔で妃奈子を見つめた。
「あたしが持っていきたいの」
 普段、さしてわがままを言わない娘の頑なな態度に、母親は少々驚きながらも溜息をつきながら言った。
「…じゃあ、ポケットの中を確認してね。何か入っていたらなくさないようにちゃんとしておいて」
 母親はそう言うと部屋を出た。
 妃奈子は小さく息を吐いた。本当はクリーニングになんか出したくなかった。
 彼の匂いが消される所になんか。
 再び上着を取り出すとポケットの中を探る。秘密を探っているようで顔が火照った。どのポケットも大した物は入っていない。領収書やどこかの電話番号が走り書きされた紙切れ、タバコのケースとそれを覆う透明フィルムの間に100円ライターが突っ込まれたタバコの一式セット。それくらいだ。
 最後のポケットも紙切れが一枚入っていただけだった。妃奈子はふーっと息を吐くと、それも他の紙と一緒に机の上に置いた。住所と電話番号が走り書きされているのだが、妃奈子は見覚えのある住所だということに気付いた。
 妃奈子の胸がどきんと高鳴る。
 見覚えがあるはずだ。それは自分の家の住所だった。
「なんで…?」
 少し角張った文字を妃奈子は見つめた。


 妃奈子は行って来ますと小さな声で言うと玄関のドアを閉めた。マンションの廊下は直接日が射し込みはしないものの、暖められたコンクリートからの熱でムッとするほど暑かった。
 建物から出ると、まるでホットプレートの上にいるような気がした。髪が汗でじんわりと襟足に張り付いてくる。こんなことなら結っておけば良かったと妃奈子は後悔した。首もとに風を送るように手で髪の毛を揺らす。
 家からクリーニング店までは5分も掛からなかった。歩きながら、このまま店を通り過ぎてしまいたい衝動に駆られる。
 いったい彼はどうして自分の住所を調べていたのだろうか。あの事件の後、事情聴取なら病院にいる間に済ませてしまっている。しかも調書を取りに来たのは亜美達がデートだと騒いでいたあの時の女性だった。何のことはない、彼女も刑事だったのだ。その後、なんらかの連絡はあったがすべて電話で済んでいる。
 妃奈子はふいに立ち止まった。これで最後、と紙袋から上着を取り出す。名残惜しむようにもう一度抱きしめ、それから口元を埋めるようにしてそっと匂いを嗅ぐ。
 小さく溜息をついて顔を上げると、20メートルほど先にその上着の持ち主が立っていた。
 妃奈子は固まった。その間にも彼は自分の方へ近付いてくる。妃奈子にとっては夢かと思ってしまうほど、にわかには信じられなかった。
「何やってんの」
 開口一番、呆気にとられたような口振りで彼、保苑幸ははそう言った。妃奈子は見られていたことを知って、顔から火が出そうな思いで彼を見上げる。相変わらず、タバコを口に咥えていた。妃奈子は突然の再会に戸惑った。
「あの、クリーニング屋さんに行く途中なの」
「何で匂い嗅ぎながら歩いてんの」
「嗅いでると、落ち着くから」
 幸はふふっと笑った。
「まるでスヌーピーに出てくる男の子の毛布みたいだな。てっきりとんでもなく臭いのかと思った」
「臭くないよ。タバコの匂いが混じってるけど、好きな匂い」
 妃奈子は俯くと小さな声で言った。そう言う間にも幸は妃奈子が手にしている物に注意を向ける。血痕の染みに気付いた。
「アンタが持ってるのって…」
「あ、えっと、あの」
「へー。なるほどねぇ」
 幸が意味深に呟いてにやりと笑う。
「違うもん。タバコの匂いが好きなんだもん。別に、あたしは…」
「俺はなんも言ってないよ?」
 妃奈子は顔を赤くしたまま、うが、と口を半開きにしたまま固まった。幸は笑いながら相変わらずだねぇと目を細めた。
「あの…。すっかり忘れてて…。ごめんなさい。ちゃんときれいにして返すから」
 妃奈子は慌てたように紙袋にしまう。幸はその紙袋を取り上げた。妃奈子が小さくアッと声を上げて幸を見上げた。
「このままでいい。返して」
「でも、あの、血とかついてるし」
「いいから」
 妃奈子は複雑そうな表情で両手を体の前で組み合わせてもじもじと動かしている。幸はその妃奈子の姿をちらりと見やった。
 学校では長い髪をきっちりお下げにしていたが、今は下ろしている。さらさらと流れるように真っ直ぐな黒髪だ。この暑い最中に日に焼けるでもなく、相変わらず透き通るように色が白かった。大きな瞳を縁取る長く濃いまつげは目を伏せたときにいっそう際だつ。私服のせいもあって、それらすべてが人形のような印象を与える。細い腕にはまだ包帯が巻かれていた。あの日のことを思い出して、幸はわずかに顔をしかめた。妃奈子はそんな幸の様子をうかがうように首を傾げる。
 幸は頭の中を振り払うべく、紙袋を軽く持ち上げて揺すってみせた。
「…ポケットん中になんか入ってなかった?」
「いろいろ。ちゃんと取ってあるよ」
「どこに?」
「家…」
 それを聞いて幸は顔をしかめた。
「ああ、ごめんすぐいるんだわ、返して…」
 肩を落とすと、うな垂れるように紙袋を持った手をだらりと下げた。妃奈子は不思議そうにパチパチと瞬きを繰り返した。
「あの、センセイ?」
「もう俺センセイじゃないってば」
「なんで、あたしの名前と住所をメモったの?」
 真っ直ぐ見上げる瞳に幸は思わずひやりとする。出来ればそのメモは妃奈子には見られたくはなかった。
「あー。アナタは一応被害者だしね」
「…そう」
 当たり障りのない返事に妃奈子は目を伏せて静かに呟いた。その姿に幸は一瞬迷ったものの、静かに口を開いた。
「及川塙志(おいかわこうし)君、だっけか」
 その名前を聞いた途端、妃奈子は弾かれたように顔を上げた。
「兄ちゃん殺した犯人まだ見つかんないのか」
 妃奈子の唇が微かに震えている。先ほどとは打って変わって顔が強張っていた。
 助けたいと思いながら、どうして自分は彼女を苦しませるようなことばかり口にしなければならないのだろう。幸は振り切るように息を吐いてから続けた。
「実はその事を話しに来たんだわ」
 幸を見上げる妃奈子の目の色が変わった。


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