----- 汝の罪人を愛せよ


   >>> 3


 東京都内の某警察署内。ここでは連日の夏日にもめげることなく多くの人が行き交う。中でも刑事課があるこの部屋は先日の強盗殺人犯の取り調べで賑わっていた。ある程度クーラーで空気が撹拌されているはずなのだが、それでも天井にはもやもやとタバコの煙が溜まっている。
「ああー腹減った。はながきぃー腹減った」
 先ほどから花垣は自分に試練を与える意味でも、必死でこの声が聞こえていない振りをしていた。ここでうっかり返事をしてしまったら、もう後には引けない気がする。昨日の幸の変貌ぶりを目の当たりにして決意が揺らぎそうだが、ここは耐えなくてはいけない。
 花垣の向かいの席に座っている幸は警視庁に引き上げる為に書類整理をしている。時刻は午後一時を回っていた。ちょうどお腹の虫がケロケロと鳴り出す頃合いだ。目の前にいる花垣に向けて幸は呼びかけているのだが、室内は程良く冷えているにも関わらず花垣は額に汗を浮かべて幸と目を合わせないようにしていた。
「花垣くーん。腹が減ったなー」
「………」
 さすがにここまで無視されると日頃は比較的穏やかな幸もムッとする。
「花垣」
 ただでさえ低めの声がさらに低く、鋭くなった。
 花垣は観念したようにハッと息を吐いた。机に両手をついて、まるで取り調べを受けている犯人が容疑を認めたかのようだ。
「分かりましたよ。出前取りますよ。何がいいんですかっ?」
「赤いきつねといなり寿司とセッタ1カートン」
「コンビニに行けと?!」
 声を裏返して叫ぶ花垣に幸はそう、と即座に返す。
「どこの店がタバコ出前してくれるっつーのよ?」
「で、えーと赤いきつねとおいなりと…せった、ですか?」
 花垣はキョトンとする。せったって雪駄? と間の抜けた声で言うと幸が空になったセブンスターのケースを放り投げた。花垣は慌ててそれをキャッチする。
「ソフトケースな」
「はあ」
「ついでにいなり寿司はおつな寿司のだと言うことないんだけどネ」
 頬杖を付きながらにっこり笑って幸がそう言うと、花垣は拳を握りしめる。
「…保苑さん、グーで殴っていいですかっ」
「うそでーす」
 幸はけらけらと笑った。
 おつな寿司といえば六本木にある。テレビ局などもご贔屓にしている、いなり寿司といえばここというくらいの有名店だ。確かにあそこのはおいしい。油揚げが裏返しになっていて、酢飯に柚のみじん切りが混ざっているという、よそとはちょっと変わったシロモノなのだが一度食べると病みつきになる。だが、ここから店までの距離はお昼の買い出しにしては遠すぎる。
「保苑さんって学生時代もそうやってパシらせてたクチでしょ」
 幸は最後の一本を咥えるとにやりと口元を緩めながら火をつける。
「まさか。学生時代は花垣いなかったもん」
「保苑さん、グーで殴っていいですかっ」
 再び花垣は拳を握りしめた。
「あ、僕も。カップラーメンとおにぎり2個頼むね」
 背後からぽんと肩を叩かれ、振り返ると蓼倉が満面の笑みを浮かべている。
 花垣の体から力が一気に抜けた。
「……」
 まるで捨て犬のような哀れな目で花垣は二人を交互に見つめる。はははーと蓼倉が笑って五千円札を花垣に握らせる。
「ハイハイハイ、チャッチャと行ってくる」
 幸が片方の眉をつり上げて花垣に向かってぷらぷらと手を振った。
 花垣は溜息を一つついて立ち上がった。


 蓼倉や幸を含む、警視庁刑事部捜査一課の強行犯係の一員は明日で引き上げていく。たいていの所轄署の刑事達は、ぞろぞろとエリート面してやって来る警視庁の刑事達に好印象を抱いてはいない。威張り散らして自分たちをパシリとしか思ってない上に、お手柄を根こそぎ持って帰ってしまうのだから当たり前だろう。挙げ句の果てにその接待費は暗黙の了解で所轄署が出さなくてはならない。そのしわ寄せはなんだかんだで自分たちにも回ってくるのだ。
 だが、蓼倉と幸は違った。
 権力を振りかざすこともなく、極力自分たちに手柄を回そうとする。花垣のようにパシらされはするけれども、文字通りせいぜいお使い程度で捜査にもきちんと関わらせてくれる。そのお使いも、お釣りは取って置けといった具合にお駄賃付きだ。間違っても領収書を切ってこいなどとは抜かさない。なんだか高校の部活の頃を思い出してしまうようなノリだった。
 そもそも過剰な接待でもしようものなら、その金を捜査費用に回せと蓼倉がちくちくと嫌味を言う。他のメンバーも蓼倉達まではいかないにしても、その言動に影響されているのか他の係よりは態度も好意的だ。班を取り仕切る管理官も蓼倉や幸の行動については特に何も言わない。
 ゆえにこの班に限っては所轄署からの評判はすこぶる良かった。
 さらに、それでいて不思議なのは、犯人逮捕までの早さ、検挙率は他のどの班よりも良いことだった。
 花垣はコンビニの帰り道に再び溜息をついた。

 署の入り口でちょうど巡回から戻ってきた交通課の婦警達に出くわす。
「ごくろーさんでーす」
 うだるような暑さの中を戻ってきた花垣は棒読みのように挨拶をした。花垣に気付いた二人の婦警ははっと顔を上げる。そのまま勢い良く花垣に近付くと、両側からそれぞれ腕を掴んで、ずるずると引きずり込むようにパトカーの中に押し込んだ。
「な、なに?!」
 花垣は狭い車内で女性に挟まれているというおいしい状況にも関わらず、不満げな声を上げた。アイドル以外の、自分の身の回りにいる女性には目もくれないのが、花垣の将来的に不安な点である。
 婦警達はそんなことは承知の上でさらに花垣に詰め寄る。
「保苑さん、明日帰っちゃうってホント?」
「ホント」
「うそーん。次はどこに行くって?」
「さあ」
「さあって花垣!! あんたせっかく松木あやのコンサートグッズ買ってきてやったっていうのに、何よその言い草は」
 花垣は眉をひそめると左右の顔をちらりと見やった。
「チケット半額で売らせておいてそれはないだろ」
「今日中に聞いといて」
「なんで」
「「花垣〜!!」」
 両方から体を揺さぶられて、花垣の脳に酸素が行き渡らなくなりそうになってきたところへ、窓をゴンゴンと叩く音がする。3人は咄嗟に体を縮ませた。振り返ると訝しげに目を細めた幸がいた。婦警は顔を赤くしながら慌てて窓を開ける。 
「花垣。アンタ、人が待ってるっつーのにこんなトコでお楽しみとはいい度胸だよなぁ」
「だー、違いますよ、こいつらがいきな…がっ」
 慌てて外に出ようとしたところへ強烈なボディブローを食らって花垣は呻いた。
「が?」
 幸が眉間にしわを寄せて呟いた。鳩尾を押さえながらふらふらと這い出てきた花垣からコンビニ袋を奪い取る。肩に腕を回すとちんたら歩いてんじゃねーよと花垣を引っぱるように歩く。長身の幸と小柄な花垣が肩を組んで歩くというのはなんともちぐはぐな光景だった。しかしあれがもし男女であれば、背丈のバランスはちょうどいいカップルに見えたことだろう。
 同じ男同士だからといって、幸にあんなにぺったりくっつかれている花垣に、こればかりは羨望の眼差しを送ることしかできない。その要因は花垣に打ち込んだ自分の握り拳だということも忘れて婦警達は地団駄を踏んだ。
 その姿を花垣は振り返りざまにちらりと見やった。後で覚えておけといわんばかりの形相に、花垣は身をすくめた。

「わかんないすよね」
「はあ?」
「いえなんでもないっす」
 花垣は肩を組まれたままぽつりと呟いた。
 事件がないときは呆れるほどぐうたらしていると言われている幸は、3年前に刑事部に移動になってから早くも警部補に昇進かとの噂が流れていた。
 若くて将来有望、ルックスもいいとなればさっきの婦警達に限らず飛びつくのは当たり前だ。当然、あちこちから狙われているのだが、幸は適当にあしらうばかりか彼女を作る気もなさそうだった。いや、もしかしたら既ににいるからこそ興味もないのだろうか?
 花垣は再び幸をちらっと見た。幸がなんだよと見下ろす。
「俺に惚れた?」
「間違ってもごめんです」
 はははと幸は楽しそうに笑う。本当はあながち間違ってはいなかった。エリート軍団の中にいても幸は見劣りするどころか、抜き出ている。なのに幸はそんな態度をおくびにも出さず、気さくだった。花垣にとってはそういった人物にまともに接する機会など滅多にないが、なぜかこうして可愛がってもらっている。男として憧れないわけがない。
 こういう人間じゃないとああいう場所に腰を落ち着けることは出来ないのだろうか。そう思うと花垣は急に自分の横にいる男が空恐ろしく感じた。 


back    index    next


Copyright (C) 2002 Mutsu Kisaka All Rights Reserved.