----- テイク・ミー・トゥ・ホーム 子供の頃、何度も何度も見た夢がある。 今にも降り出しそうなどす黒い雨雲の下で、吹き荒ぶ風に弄ばれるススキ野原に、俺はぽつんと立ちすくんでいる。その時によって、主観的にその光景を見つめていたり、俯瞰で客観的に見ていたりと状況は変わっているけれど、舞台が変わることはない。 俺が目を向けている方向、そのはるか彼方では、雲間から光がスポットライトのように地面を照らしている。光を受けて青く輝く草原には、草をはむ動物の間に人影が見えた。 そこはまるで時の流れなど存在せず、絵画のように切り取られた風景だった。 そして、ここから抜け出して早くそこに行きたいのに、なぜだか俺は一歩も動けない。 回りを見渡すと、俺と同じようにその場に留まったままの人、ゆっくりとではあるけれど前に進む人、笑いながら走っている子供、気がつけばたくさんの人がいる。いや、人だけではない。勢いよく駆けていく動物や頭上を羽ばたいていく鳥の姿も見える。 なぜ俺はこんな所にいるのか? いつも分からず、そして只々前を進む人をぼんやりと見送るだけの時もあれば、救いを求めて声を上げる時もある。 誰か、この手を引いて。 あそこへ連れていって。 しかし、そうやって叫んでも、誰も俺の声に振り向かない。 そもそも声は音にならないのだ。 そうこうするうちに、焦燥したまま目が覚める。 自分は『独り』なのだということを嫌でも思い知らされ、真夜中に打ちひしがれるだけの後味の悪い夢。 あてがわれた部屋がとてつもなく広く感じ、本棚にずらりと並ぶ本が今にも飛び出して襲いかかってきそうな、鬱蒼とした月明かりだけの暗闇。 どうして俺は夢の中であの光の傍へ行けないんだろう? そんな時は決まって鼻の奥がツンと痛んで、目から水が流れ出る。 これは、誰にも話せない秘密。 「待って」 その日、すぐ脇を通り過ぎる大きな背中に気付き、俺は慌てて服の裾を掴んだ。 今まで感じたことのない、確かな手応えだった。 俺の手に気付き、振り向いたその顔は酷く疲れているように見えた。白髪の混じった髪、深く刻まれた皺、くすんだ瞳。無精ひげにも白いものが混じっている。目に見えない何かと戦い続けた末、敗れたことに、慚悔しているような安堵しているような、そんな雰囲気を漂わせていた。 男は虚ろな表情で、誰かに反応して貰えたことにほっとしている俺を見下ろした。 「……何だ?」 「僕を、あそこへ連れていって」 男は俺を一瞥すると無理だと答えた。 「どうして」 「お前はここにいるべきじゃない。早く帰れ」 「帰れって、何処に?」 男は黙って俺の後方を指さし、俺は振り返った。そこは雨雲の中心部とも言うべき場所で、このススキ野原で一番暗く、雨が叩き付けるように降っている。時折雷鳴が轟き、ここにいる連中はあそこから逃げてきているのだと俺は思っていた。 俺はぶるっと身震いをした。 「なぜ?」 「“なぜ”だと? 自分が何処にいるのか分かっていないのか。どうやって紛れ込んだ」「“どうやって”? そんなこと分からないよ。僕はここで父さんと母さんを捜しているだけ」 するすると口をついて出た言葉に俺は気がついた。 そうだ、俺はここでずっと両親を捜していた。 もういなくなってから何年も経ったことは分かっているはずなのに、なぜかここで、俺は二人の姿を見た気がしているのだ。 本当はいなくなってなんかいない。 俺を試すために姿を隠しているだけなんだ。 俺が『良い子でいるように』という言いつけを守れるかどうか。 良い子にしてるよ。 ちゃんと良い子にしてるよ。 だから迎えに来て。 独りにしないで。 傍にいる男の事などすっかり忘れて俺は光の方を見据えていた。 「坊主、こんな所にいちゃいけない」 大きな手で頭を撫でられた。 俺は光が照らす草原を指さした。 「あそこにいるはずなんだ。僕が来るのを待ってる。だから連れていって」 「それは出来ない」 「どうして」 「それはお前が一番よく分かってるはずだ」 「分からないよ。なぜこんな所にいるのかも、なぜ僕は前に進めないのかも」 「それは違う」 男は言って、ゆっくりとその場にしゃがみ込む。 「前に進めないんじゃない。まだ進む必要がないだけだ」 「ここはどこなの?」 「その時期が来たら分かる。分からないということは、お前は迷い込んでしまっているんだろう」 「迷い込んでる?」 「おそらくそうだ。その類の話なんてのは家内が好きなんだが、俺は信じちゃいなかった。だが、そういうことなんだろう」 俺は男が何を言っているのか良く理解できなかったが、男は一人で納得したように頷いていた。 「おじさんはどうやってここに来たの」 「受け入れたからさ」 「何を……?」 「やるだけやって、お仕舞いだと悟ったらここにいた」 尚も腑に落ちない顔をする俺に、男は時期が来れば分かると答えた。 「残す辛さよりも、留まる辛さの方が勝っちまう。最後の最後で己の欲に忠実になってしまうとはな。案外そういう風に出来ているのかもしれん」 男がまた俺の頭を撫でた。 「坊主を見ていると揺らぎそうになるが、もう選んでしまった」 その悲哀を含んだ瞳を俺はじっと見上げていた。さらに男のことについて尋ねようとしていたが、これ以上の問いは、俺自身も触れて欲しくない部分に踏み込んでしまうのかもしれないと思い直した。 「僕のほかにも進めない人がいる。あれはどうして?」 男はぐるりと辺りを見渡し、ほう、と驚きに似た声を上げた。 「お前と同じように迷い込んだのか、はたまた『境目』にいるのか」 「『境目』?」 「大体、なぜあそこに両親がいると分かる」 男は話を逸らすように俺に向き直った。 「はぐれでもしたか? 帰れと突き放されたか?」 俺は首を横に振った。 「じゃあ、なぜ」 「……分からない。でも、確かにいるはずなんだ。僕を置いて、いなくなってしまったけど、やっと見つけたんだよ」 核心をつかれ、俺は急に心細くなって泣き出してしまった。男は俺の背中を優しくさすった。 「こんな所に独りでいたくない」 「ここはお前のいるべき所じゃないからな」 「だったら僕を連れていって」 「言っただろう。それは無理だ」 ヒッと息を吸い込む音がのどの奥で鳴り、俺は何度も手の甲で涙を拭った。 「こうして立ち止まり、お前をなだめることは出来る。だが、お前をここから連れ出すことは、俺には出来ないんだよ」 「じゃあ、誰なら出来る?」 「誰だろうな。神様、仏様……、そういった奴らにでも頼んでみたらどうだ」 「僕はそんなの信じない」 男はそうかと呟き、顔を緩ませた。 「お前くらいの年でそういうことを言うとは珍しい。よほど裏切られるような思いでもしたのか」 「僕は何度も頼んだ。父さんと母さんを返してって。返してくれたら何でも言うことを聞くって。だけど、返してくれなかった」 「それは無理な注文だからだろう。自然の摂理を無視するような願いは聞き届けられはしないんだろうさ」 「そんなのは神様や仏様じゃない」 「坊主、お前が言うような願いを叶えようとするのは人間だけだ」 俺は目を見開いた。 「人間が? 分からないよ、どうして?」 「坊主、もうここに長居しちゃいけない。お前を待っている人は大勢いるはずだ」 「いないよ」 「いない? 一人くらいいるはずだ」 そう言われて不意に浮かんだ人物が一人。だが俺はそれを隅に追いやった。男はその微かな動向を見逃さなかったらしい。 「ほらな、いただろう」 「いない、いないよ」 「ほんとにそうか? 俺にはお前を呼ぶ声が聞こえるぞ」 そう言って男はススキを鳴らせる風に耳を澄ませた。 ヒュウと耳元で鳴る風に紛れて、俺の名前が聞こえたような気がした。男は目を細めた。 「女の子の声がするぞ」 男は声の方を向き、にやりと笑った。頬が熱くなる。俺はムキになって違うと叫んだ。 「アイツは違うよ、待ってなんかいない。いつも僕を待たせるだけだ」 「だが、あれは心配している声だ」 そんなやりとりを交わす間にも、俺を呼ぶ声は次第に大きくなってきていた。俺はその声から逃げるようにしゃがみ込み、両手で耳を塞いだ。 「違うよ、違う。僕には聞こえない」 「ならばなぜ耳を塞ぐ? 確かにお前を待たせるだけかもしれん。だが、お前を必要としている声だぞ」 俺の手をそっと掴み、顔を引き上げながら男はさらに言った。 「その声に背を向けて、この場に居続けるのか? 両親は決してあそこに招いてくれはしない」 「どうしてそんなこと分かるの」 「俺ならそうするからさ」 塞いでもその僅かな隙間を縫って進入してくる声は、置いて行かれた後に捜し求めて叫ぶ時のような、拗ねたような不安が混じっていた。 「悲しげな声だな」 「いつも泣きながら僕の後を追い掛けてくるくせに、僕に何かある度に大丈夫かなんて訊いてくるんだ」 男は俺の背中を優しく撫でた。 「いい子じゃないか。お前を待ってるよ」 その拍子に俺を呼ぶ声は塊となって体の奥にまでずんと入り込んだ。 胸が締め付けられ、息苦しくなるほどの懐かしさを感じた。 俺は立ち上がると空を仰ぎ、そして雨雲の中心部へ目を向ける。まるで渦潮を海の中から見ているような気分だった。渦に吸い込まれて海中に引きずられ、ふらふらとこちらに向かってくる大勢の生き物たち。 男と話すうちに、俺はここが何処なのか分かりかけていた。 物事に始まりと終わりがあるとすれば、ここはその終わりの部分だ。 終わりがあるからこそ、始まりは初めて意味を持つ。 中途半端な俺はここにいるべきではないのだ。 あの渦の外が、本当に俺の帰るべき場所なのか? 迷いが俺の手を引き、草原へ気を惹かせようとした。それを断ち切るかのように、男の呟く声がした。 「人間というのは分からん事を分かろうとして、踏み込んじゃならない所へ踏み込んでしまうものなのかもしれんな。お前もそのうちの一人さ」 男は立ち上がった。俺は慌てて彼の腕を取ったが、男はその手をそっと押さえた。 「お前は前には進めないが、戻るべき場所へは難なく進める。目を背けているだけで、本当は分かっているんじゃないのか?」 その顔からは苦悩が消え、すがすがしい笑みがこぼれていた。 「お前の手を引いてくれるのはあの声だ。お前の帰る家があそこにはある」 男が俺の背中をそっと押した。 つ、とそれまでびくともしなかったはずの俺の足は、渦へ向かって一歩踏み出した。 男の方を振り返る。男は構わず行けと手を挙げた。 「俺は戻りたくても戻れんのだよ。そろそろ行かなきゃならん」 「おじさん」 あの光の元へ行こうとしていた男は立ち止まった。 「もし僕の父さんと母さんに会ったら伝えて。呼んでくれないから嫌いになるかもしれないって」 男は笑った。 「伝えておこう」 俺はゆっくりと歩き出した。 声はどんどん大きくなる。 椿、椿、椿。 呼んでくれる声がする。 椿、椿、椿。 俺は走り出した。 向かい風なのに、俺は軽々と渦に向かって進んでいく。 目にゴミが入ったような気がした。 洗い流すように涙が次々と溢れてくる。 それには構うことなく、俺は走り続けた。 椿、椿、椿。 不思議と息は切れなかった。 「椿」 耳元ではっきりと呼ぶ声がして、俺は目を開けた。 ここは何処だとぼんやりとしていると、さらに体を揺さぶられた。 目の端に見慣れた本棚が映った。 ここは俺の部屋だ。 「椿」 声のする方を振り返ると、暗がりの中でうっすらと美哉の顔が見えた。 「……何?」 「大丈夫?」 「何が?」 美哉の手が俺の目元に近付いてきて思わず目を閉じる。美哉は指先でそっと目尻の辺りを擦った。 「泣いてる」 「え?」 目を開けると濡れた指先が微かな光を受けて輝いていた。 「怖い夢でも見てた?」 俺は返す言葉に迷いながら、手の甲で残りの涙を拭う。 「……いや、あー、うん。そうじゃないけど」 「どっちよ?」 「昔よく見た夢を見てた」 「どんな夢?」 「さあ…、なんだろう」 体を美哉の方に向けた。 「俺はいつも三途の川を渡ろうとしてたのかもしれない」 「え?」 美哉は眉をひそめた。 「夢の中でさ、いつも両親を捜してるんだ。やっぱりなんだかんだ言っても寂しかったんだと思う。両親のいるところへ行きたかったんだよ」 「今も?」 「今は、寂しくないって言ったら嘘になるな。だけど現実を受け入れてはいるよ」 そっか、と小さく美哉が呟いた。 ふと男に頼んだことを思いだした。 「ああ、そうだな、嫌いになったかも」 「はぁ? 何で?」 怪訝な表情で美哉は俺を軽く睨み付けた。 「俺を呼んでくれなかったから」 「でも、呼ばれてたら……」 「朝になって冷たくなった俺が発見されたりしてな」 「そんなのヤダよ。むしろ呼ばれなかったことに感謝しなきゃ」 「だな」 思わずふっと笑ってしまってから、美哉の目をじっと見つめた。 「な、何?」 「呼んでくれてありがとう」 少し沈黙した後、どういたしましてと言って美哉は肩をすくめた。 「今何時だろ」 枕元の時計に目を向ける。午前五時半。まだ夜明けには時間がある。 「もう少し眠っていようよ。だらだらして、ご飯食べたら映画観に行くの。ね?」 「ね、って授業あるだろ」 「ズル休みしちゃおう」 「はぁ? 何言って……」 「あーダメダメ。もう決めたもんね。決定」 そう言いながら、美哉は手で俺の口を塞いだ。 「ね、だから、おやすみ」 「おまえなぁ……」 「おやすみ!」 美哉は俺の肩に頭を寄せると目を閉じた。 「おやすみ」 おやすみ。 再び目が覚めるまで。 俺はもう二度とあの夢を見たりしないだろう。 次にあそこへ行くのは、目を覚ますことが出来なくなった時。 その時になれば、あの男の気持ちも分かるのだろう。 だけどそれはきっと何十年も先の話。 - 終 - Copyright (C) 2004 Mutsu Kisaka All Rights Reserved. |