----- ラブリー


   >>> 7



 深夜、美哉の寝息を肩先にくすぐったく感じながら、俺はさっきまでの行為で心の中の諸問題が解決されたのかどうかを考えていた。ある部分はされたし、またある部分はされなかった。多分、それは美哉も同じのような気がする。解決されなかったものはなんなのか、それはあまりにも漠然としていて、自分自身を少し苛立たせもした。
 寝返りを打って美哉を抱きしめてみる。ほんの少し窮屈そうな声を上げて、また静かな寝息が聞こえる。
 美哉は怒っていたけど、美哉のムネは好きだ。手で覆いきれるくらいの大きさがちょうどいいと思う。分かってないよな、この体に長谷川ヒトミみたいなムネがくっついてたら気味が悪いっつうの。でもそんなことで怒ったり笑ったり、くるくる表情が変わるのは見ていて飽きない。
 素直に可愛いと思うから、手放したくない。

 思えば、長谷川ヒトミの件はある意味ほんの序章に過ぎなかった。
「もしかしたら、蝦沢(えびさわ)さんですか」
 昔の名前で呼ばれたのは初めてだったから、最初は気付かず校門を通り過ぎていた。ぐいっと腕を掴まれてやっと気がついた。
 振り返ると、一見してかなり気の強そうな女の子が立っていた。イイトコのお嬢さんといった風情を全身に漂わせ、毅然とした表情だ。
 はいと答えるべきか、いいえと答えるべきか、一瞬迷ってからどなたですかと尋ねた。
「あなたの父親は蝦沢龍司?」
 俺の問いには答えずに、再びその子は俺に質問を投げかける。
「どうしてそんなことを訊くの」
「質問に答えて」
 その子を振り切るように俺は歩き始めた。待って、と背後で声がする。行き交う何人かが俺の方を見たけど、構わず歩き続けた。その子は俺の前に回り込むと行く手を阻んだ。これ以上付きまとわられるのも困るので、しぶしぶと認める。
「私は、有馬由宇香(ありまゆうか)。母の名前は、多佳子(たかこ)です。旧姓は盛田(もりた)」
「はぁ」
 まったく身に覚えがない名前だったから、それしか言いようがなかった。キッと俺を見据えると、彼女は再び口を開いた。
「母はあなたのせいで不幸な人生を送ってるの」
「どうして」
「あなたが生まれなければ、母はあなたの父親と結婚できたはずなの」
 止まっていた足を動かす。訳が分からない。突然のことで頭は真っ白だった。その場を立ち去ろうとする俺の腕を再び掴む。
 一瞬のことで何が起こったのか理解できない。
 彼女、有馬由宇香は俺の口から唇を離すと、これは復讐よと小さく呟いた。
「あなたの人生を、私がめちゃくちゃにしてあげる」
 そう言い捨てると、彼女は挑戦的な笑みを浮かべながら俺の方へ体を向けたまま、歩き出す。やがてくるっと向きを変えると、門の外へ小走りに駆けていった。
 俺は茫然としたまま、その後ろ姿を見送っていた。
 咄嗟に思い浮かんだのは、美哉が側にいなくてよかった、ということだった。
 その日、珍しく家にいた親父に俺は開口一番に訊いた。
「盛田多佳子って知ってる?」
「はあ?」
 親父はぽかんとした顔で俺を見た。
「誰、それ」
「いや、だから俺が訊いてるんだけど」
 さあ、と言う返事を聞いて、俺は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。そのまま、直に飲む。
「あー、椿、お前がいつも直に飲むなって文句言ってるのに…」
 と親父が声を上げるのを後目に、俺は全部飲みきるとゴミ箱に捨てた。
「なんかあったの?」
「別に」
 息をつくと俺はテーブルの一点を見つめていた。
「ねえ、俺って出来ちゃった結婚で生まれたの?」
「出来ちゃったっていうより、出来るようにしたっていうか。その辺はよく分かんないけどね」
「じゃあ、仕方なくってわけじゃないんだ?」
「椿?」
 俺は自分の部屋に向かった。
 ベッドに転がる。天井を見ながら有馬由宇香の顔を思い浮かべようとしたけれど、ひどく曖昧でモザイクをかけられた犯罪者のようなものしか浮かばなかった。
 あなたが生まれなければ。
 多佳子という人と、両親の間に何があったのだろう。
 俺の覚えている両親との記憶は、確か母親に「パパが一番で椿が二番」と言い切られてショックだったことか。父親がフォローで「パパは椿が一番だよ」と言って、母親を激怒させてた気がする。それくらい、回りが呆れる程のバカップルだったらしいけれど。そんな二人に修羅場のようなものでもあったんだろうか。
 ドアを叩く音がして、俺は体を起こした。ドアが静かに開いて、親父が顔を覗かせた。
「飯出来たよ」
「いま行く」
 親父と向かい合ってテーブルに座る。左手の薬指に光る指輪を見た。
「親父はさ、再婚って考えたことある?」
「全然」
 親父はビールを飲みながら笑った。軽く流してるけど、意外とモテる人だっていうのは知ってる。独り身の今では意味をなさないその指輪をしてても、いろいろと言い寄られてると神崎さんから聞いたことがある。
 それなのに女っ気のかけらもないっていうのは、どういうことか分かってるんだけど。
「今日はなんだよ」
「ふと思っただけだよ」
「して欲しいの?」
 俺は親父を軽く睨んだ。
「して欲しいわけじゃないよ。ただ…やっぱ、なんでもない」
「外せないんだよ」
 左手を俺に見せながら親父は苦笑した。
「実はさ、沙苗さんに一度言われたことがあるんだけど」
 そう言って、俺に向けた手をぐっと握りながら親父は遠い目をした。
「それっきりそのテの話はさせなかった。そんな未来を見るなら今の俺達を見ろって、アレが最初で最後に沙苗さんに怒ったことだったな」
 だって、それじゃあ俺がすぐに心変わりする人間みたいじゃないか、と親父は誤魔化すように煮付けを口に運ぶ。
 心変わりするも何も、しなさすぎだろと思ったけど、言うのはやめておいた。自分が死んだ後のことを心配するくらいなら生きてる間のことを考えろなんて、いかにも親父が言いそうなことだ。でも、それでも自分よりも回りのことを考えてしまうのが母さんだったけど。
「俺が再婚する気がないのはさ、ギブアンドテイクだからなんだよ」
 親父は一瞬、哀しそうな目をして笑った。
「子供を欲しがっていたのは、沙苗さんじゃないんだ」
 箸を持つ手が止まった。
「子供は好きだけど、ちゃんと育てられないからって思ったんだろう。欲しいと直接口にしたことはないんだよ。ただ、俺を残して死ぬのはイヤだって言ってたことはある。
 でもね、本当は俺が再婚したりするのがイヤだったんだと思う。それが沙苗さんのエゴなんだ。俺もそれが分かってたから、だから俺のエゴとして養子の話を出したんだ」
 親父はヤな夫婦でしょ、とうっすら笑った。
「じゃあ、俺がいるから再婚しないってこと?」
「今はもうそれが理由じゃないけど」
 ビールを一口飲んで、親父はまっすぐ俺を見た。
「あの時は怖かったんだよ。君なら分かるでしょう?」


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