-----  ラブリー


   >>> 23



 目が覚めた。
 久しぶりに夢を見たような気がする。
 どんな夢を見ていたのかは、目が覚めた途端に忘れてしまった。
 天井をぼんやりと見つめて、それが見慣れない模様をしていることで、ようやくここはストックホルムのホテルなんだと気がついた。
 昨日は過ぎてしまえばあっという間で、まるで幻のような一夜だった。
 あの日が来るまでに、気がついたら十年以上経っていた。父親の後を継いで研究を重ねてきたら、偶然から生まれた発見でとんでもない賞を受賞してしまった。湯川秀樹の四十二歳をぶっちぎりに抜いて日本人では最年少ということもあって、国内外を問わず多くの人が俺に注目した。
 俺の周辺は一変したけど、昔みたいに注目されることに対してもう苛立ちは覚えなかった。オトナになったこともあるけれど、俺のバックグラウンドによるものではない、自分自身に対しての評価だからだ。
 時計を見る。午前六時。
 ドアをノックする音がして、返事をしながらベッドから抜け出た。ドアを開けると品のいい中年の、ボーイと言うより執事のような男が立っていた。
「おはようございます。昨日の授賞式の記事が載っているので、どうぞ」
 にこにこしながら彼は新聞を差し出した。頼んでいないはずだけど、と戸惑うと個人的なサービスです、と彼は肩をすくめてウインクをした。
「それと…、奥様の具合はいかがですか。まだよろしくないようでしたら病院をご紹介しますが」
 青い顔をして帰ってきたのを見ていたんだろう。案外、彼が来た一番の理由なのかもしれない。
「いえ、ご心配なく。病気じゃなかったんです」
 え? と不思議そうな顔をする彼に、一瞬迷ってから、三ヶ月だったんですよと告げた。まだ事情を飲み込めていない様子に、ジェスチャーで示してやると、ようやく彼はまるで自分の子供か孫でも出来たみたいに破顔した。
 素晴らしい、おめでとうございます。と何度も言いながら、彼は手を握った。
「ああそうだ、とても素晴らしい写真でした」
 去り際に、新聞に目を向けながら彼は意味深な笑みを浮かべていった。
 ベッドまで戻ると、彼の声で目が覚めたのか、そのオクサマはもぞもぞと体を動かしている。
「…誰?」
「昨日のボーイ。新聞くれたよ」
 まだ眠そうに目を擦っている顔に近付いた。
「具合はどう? 朝食会、出席できそう?」
「だから、病気じゃないってば。昨日は帯を締めすぎちゃってただけ」
 俺の顔を両手で挟み込むようにして、そう言うと小さく息をついた。
「晩餐会の料理が、消化する前に逆流していったのは悔しいわ」
「残りのイベントは着物やめておいたら?」
「大丈夫、ていうかそれしか持ってきてないし」
 無理すんなよ、と頭をくしゃくしゃと撫でると、俺を見上げる顔に笑みがこぼれた。
「ハネムーン代わりに来たのに、もうハネムーンベビーがいるなんておっかしいよね」
「ばーか、ハネムーンの間に仕込むからハネムーンベビーだろ。だいたい、準備とか取材であんなクソ忙しかったのになんで…」
 そこまで言いかけて、ちらりと顔色を窺う。
「…まあいいんだけどさ。正直嬉しいし」
「なんでだろうねぇ」
 くすくすと漏れる笑い声に溜息をつきながら、新聞を広げて、俺はげっと声を上げた。その声に彼女も、なに? と起きあがってきて腕の隙間から覗きこむ。やはり俺と同じように声が上がった。
「なんて書いてあるの?」
「あんまり読みたくない」
 なんでよー、と言う声にちらりと目を細める。小さく咳払いをして読み上げる。
「医学賞を受賞した北野椿氏。今年度受賞者の中では最年少でもある彼の正装姿は、ヴィスコンティの『ルートヴィヒ』から抜け出てきたように優雅であり、会場からは嘆息が漏れた…って、笑うな」
 腕に載せた顎から振動が伝わってきて俺は新聞を放り投げた。
 授賞式での様子を写した写真の見出しには「FABULOUS!」という文字が踊っている。さっきのボーイがニヤニヤしていた理由が分かった。まるでスポーツ紙の芸能欄のような記事は、親父に笑い転げてくれと言ってるようなものだ。舌打ちをして立ち上がる。
「ほら、そろそろ準備しないと」
「そんな優雅な人がダンナ様で嬉しいわ」
 差し出した俺の手に掴まってベッドからすべり降りてくると、ふんわりと笑った。
 鼻歌を歌いながらバスルームへ向かっていくのを見送って、床に転がった新聞に目を落とす。
 彼に寄り添う北野夫人は着物に身を包み、可憐な姿が実にlovely…。
「ねえ、オーロラも白夜も夏なんでしょう?」
「いや、オーロラは冬だよ。でもここじゃ無理なんじゃない」
 北野夫人がバスルームから不服げにそうなの? と顔を覗かせた。
「もっと北の方に行かないと」 
「じゃあきっと、ここより寒いよね。よし、オーロラは諦めた。今度来るときは夏にしようね。冬は夜ばっかりでつまんない」
「つまんないって、おまえなあ…」
 人一倍はしゃいでるクセに、なにを言うんだか。
「だって、それが一番見たかったのに」
 そう言いながら出てきた彼女が身に纏っていたのはワンピース。
「なんだ洋服も持ってきてるじゃない」
「そうよ。朝から着物着てご飯食べろなんて、誰も言わないでしょ?」
 まあ、そうだけど。
 俺のネクタイを直し、からかうような笑みで彼女はそっと髪を撫でる。
「ねえ、昨日の夜みたいに前髪上げないの?」
「朝から前髪上げてご飯食べろなんて、誰も言わないだろ」
 それに上げてる方がイレギュラーなんだから。
「さて、今日もばっちり“優雅”よ、椿」
 ドアに向かって歩きかけるその手を掴む。引かれた反動で俺の方に傾く体を受け止める。
「美哉」
「なあに」
 朗らかに笑うその顔に、目を細める。
「昔さ、俺の存在は偶然か必然か、って言ってたろ?」
「え?」
 背後の俺を見上げる形で、美哉はきょとんとした顔をする。
「あれってさ、やっぱり俺は必然なんだと思うよ」
「どうして?」
「この賞を貰うためだった、なんて俗物的なことじゃなくて。こうして美哉と一緒にいるためなんだ、きっと」
 そして美哉のお腹の中にいる、椿三十郎も。なぜだかよく分からないけれど、きっと男だろうと思った。
「愛してる」
 美哉は目を見開いたかと思うと、慌てて俺から離れて体勢を整えた。
「なによもう、朝っぱらから」
 頬を赤らめながら軽く睨み付けると、遅れちゃうよとそそくさとドアへ向かう。
 俺はその後ろ姿を見つめて苦笑すると後を追った。
 こんな非凡な人生も、そう悪くないと思いながら。


                                - 完 -



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