----- 君たちは嘘つき


   >>> 3


 下に駆けつけるとすでに生徒達が遠巻きに集まっていた。教師達が必死に教室に戻れと叫んでいる。その騒ぎをすり抜けて幸は落ちていったものへ近寄った。
 女子生徒が一点を見つめて倒れていた。手を取ったがすでに息はない。幸はその取った手に切り傷があるのを見つけた。よく見ようと思って顔を近づけたとき、急に後方へ強い力で引きずられた。幸はその勢いでひっくり返った。
 見上げると体育教師が近寄るなと怒鳴った。彼はひどく動揺している。幸は倒れたまま彼女が落ちてきた方を見た。五階の部屋だろうか、それとも屋上から。今はもう無数の生徒達が窓から身を乗り出していて何も分からなかった。
 保健医が駆け寄ってきて、離れて下さいと叫んだ。側に来ると保健医はウッと息を飲んだ。なんとか気を持ち直し、幸にもうチャイムは鳴りましたよと厳しい声で告げた。


 やがて救急車とパトカーのサイレンが校内にけたたましく鳴り響いた。
 保健医に追い払われた後、幸は教室に戻って授業を始めたが、生徒達が集中出来るはずもなく教室の中はざわついている。
 そのうち幸が教頭に呼ばれ、教室内は一層ざわめく。ちらりと妃奈子を見ると不安気な表情を浮かべている。神田に後を任せて教室を後にしたが、神田も続きを行う気力はなくその時間は必然的に自習となった。
 図書室に連れられ、中に入ると警察がいた。幸は簡単な事情聴取を受けたが、どうやら落ちる瞬間を見ていたのは幸だけだったらしい。それなら妃奈子も見ていたことになるのだが、幸は敢えて名前を出さなかった。


◇ ◇ ◇


 後日、幸ら教生達が校長室に集められた。今回の件について校長は、申し訳ないがあまり関わらないで貰いたいと切り出してきた。実習期間は半分以上過ぎている。確かにこのまま穏便に過ごせば、教生達にとっては何とかカリキュラムはこなせるだろう。
 事件は、また五階の窓からの転落事故だった。その教室には彼女以外誰もいなかったとされているが、幸は確かにその女子生徒が誰かと会話をしていたような声を聞いた。その人物が事件の鍵を握っているのは明らかだ。なのになぜ取り沙汰されないのか。
 そのような考えを巡らせているさなか、教頭が幸を一瞥すると更に続けた。
「特に保苑君、君は第一発見者だったらしいが、今後警察からの要請以外は必要以上に首を突っ込まないでくれないか。私としてはもうこれ以上、変な噂は広まって欲しくないのだよ。もちろん君にとってもあまり良いことではないと思うしね」
 教生一同は幸の方を見た。中尾は何か言いたそうにしている。
「教頭先生、そこまで言わなくても。でもまあ、そういうことなんだよ。皆さんいいかな?」
 恰幅のいい校長が困ったように笑いながら、神経質そうな教頭を制する。教頭は溜息をつくとまだ不満があるのか鼻を鳴らした。 
 その時、幸は体の中で何かがふつふつと沸き上がるのを感じていた。
 この学校には、やはり何かが潜んでいるのだ。そう確信した。


 その日の放課後、幸が帰ろうと身支度していると妃奈子がそろりと現れた。幸は彼女が自発的に自分のところへやって来たことに少々驚いた。きっとあのことが気になっているのだろう。まだ準備室には他の教師が残っていたので、幸は別の場所へ移るよう妃奈子を促した。神妙な顔をしてはいるが、確実に幸を訝しんでいる様子だった。
「センセイ、あの日どうしてあたしは呼ばれなかったんですか」
 中尾と話をした非常階段まで来たとき、開口一番に妃奈子はそう言った。そら来た、と幸は身構える。
「俺がそう仕向けたから」
「仕向けたって…」
「あの時部屋には俺しか居なかったって言ったんだよ」
「どうして? あたしだって居たのに」
 まるで事情聴取を受けたかったような言い方だ。幸は上着のポケットのタバコに手を伸ばし掛けたが昼間のことを思い出し、その手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「じゃあ聞くけど、あの時“声”を聞いた?」
「声?」
 妃奈子は間の抜けた声を上げる。やっぱりな、と幸は舌打ちをする。
「アンタは何を“見た”の?」
「それは…」
 厳しい表情で見据えられて妃奈子は口ごもった。
「あの時一番多く見てたのは俺の胸元、デショ? 違う?」
 途端に妃奈子の顔がぱっと赤くなった。幸に抱きついたことはきっと妃奈子にとっては不覚の事態だったに違いない。
「事情聴取ってけっこう面倒くさいんだよ。受けなくて正解」
 じゃあね、と幸は行きかけたが、妃奈子はそれを遮った。
「“声”って何?」
 幸は妃奈子を見下ろした。さあね、ととぼけようとしたがある考えが浮かんだ。
「この学校の秘密を教えてくれたら教えてもいいよ」
「秘密?」
「じゃなかったら、アンタのでもいいけど」
 妃奈子は途端に顔を強張らせた。
「別に何もありません」
「そう? なんで男が嫌いなの?」
 幸は我慢できずにタバコを取り出した。妃奈子をちらっと見たが、そんなことに気付く余裕もないほど妃奈子は動揺していた。唇を強く噛みしめている。
「何でそんなこと聞くんですか?」
「どうしてだろうね、何かイヤなことでもされたとか?」
 自分の目の前に立っているのは男だった、と今頃気付いたかのように妃奈子の目が怯えていた。幸は目を細めると、今度は妃奈子にかからないように煙を勢いよく吐き出し、吸いかけのままポケット灰皿に突っ込んだ。
 我ながら酷い男だと幸は嫌悪感を抱いたが、何を今更とそれも煙と一緒に吹き消す。
 ここまで恐れる姿を見れば理由は聞いたも同然だった。
 ふと、幸の頭にある言葉が浮かんだ。
「誰かに売春を強要されたことは?」
 幸の問いに妃奈子は首を横に振った。幸は更に詰め寄る。
「一体この学校は何を隠してんだよ。アンタはその何かを知ってんじゃないのか?」
 妃奈子が顔を上げた。かすれた声が震える唇から漏れた。
「噂が…」
「それなら腐るほど耳にした」
「違うの、クラスの子が先輩から聞いたって…」
 そこまで言うと妃奈子は我に返って口を閉ざした。
 幸は思わず口元が緩んだ。やっとしっぽを掴んだと思った。 
 妃奈子は顔を逸らせる。
「何でもない。今のはあたしの勘違いです。違う話」
 慌てて否定したが、もう遅かった。
「今更何言ってんの、観念しなさいって」
 妃奈子は口を尖らして幸の顔を真っ直ぐ見る。諦めたように息を吐いた。
「成績が悪かった人は、ある補習を受ければ秘密の“参考書”をくれるって」
 妃奈子は鞄を抱えながらそう言った。
「秘密の“参考書”? 何だそれ?」
「知りません。そういう話があるってことしか…」
「誰から聞いた?」
「もう忘れました」
「他にはそういう類のことはないのか?」
「あるのかも知れないけど…」
「じゃあ教えろ、何の教科だ?」
 幸は妃奈子に次々と問いつめる。先ほどからじりじりと離れようとする妃奈子を遠ざけまいと、無意識のうちに手が腕を掴もうと伸びていた。妃奈子はその手から逃れるように一歩、また一歩と階段を下りる。幸もそれを追うように階段を下りていく。妃奈子は幸の動きを見逃すまいと目線を幸から離さなかった。踊り場まで下りたことに気付かずバランスを崩す。転げる寸前で幸が腕を掴んだ。バランスを取り戻すと妃奈子は幸の腕から逃れるように体をよじってしゃがみ込んだ。
「触らないで」
 顔色が青ざめているのが分かって幸は冷静を取り戻した。
「…及川? 大丈夫か?」
「知らない、あたしは何も知らない」
「悪かったよ」
 幸は掴んだ手を引っ込めて、髪を掻き上げるようにばりばりと掻いた。幸が幾分緊張を緩めて妃奈子に優しい口調で言っても、妃奈子は体を縮こませたままだ。
「及川?」
「や…いや、もういいでしょ? 来ないで…お願い」
 尚も妃奈子は懇願した。幸は眉間にしわを寄せる。妃奈子の前にしゃがみ込んで顔を覗こうとしたが、鞄ごと膝を抱え込むようにした腕で遮られてよく見えなかった。
「分かった、もうやめる。…別にアンタをどうこうしようとか思ってないから。アンタに何があったのかももう聞かない」
 妃奈子の体がわずかに揺れた。
「辛いことを自分一人で抱え込んでてもしんどいだけだぞ?」
「…ほっといてください」
「気分でも悪くなった? なんなら送ってくけど」
 それを聞いた途端に妃奈子は首を激しく横に振った。幸は大きく溜息をついてうなだれる。ついでにタバコに火を付けた。
「だから何もしないって言ってんだろ、アンタもしつこいな。だいたいガキに盛るほど飢えとらんわ」
 途端に妃奈子はキッと顔を上げて幸を睨みつけた。
「お、元気になった」
 幸はタバコを片手に頬杖つくとにっこり笑った。その笑顔があまりにも無邪気だったので、妃奈子は半ベソをかいたように口をへの字に曲げ、怒っているとも困惑しているとも言い難い複雑な表情をした。
「…センセイって一体何者なのよ?」
「別に。好奇心旺盛な、ただの若者なんですけどね」
「絶対嘘だ」
 しれっとした顔で言う幸に、妃奈子は即座につっこみを入れる。にやっと笑って幸は立ち上がった。
「で、どうなの? 具合が悪いの? 持ち直したの?」
「具合なんか悪くありません」
 幸は妃奈子を見下ろしながらタバコを深々と吸い込むと、煙を思い切り吐く。
「あーあ、冷や汗かいた分、タバコがうまいわ」
「…ムカつくっ、…っ」
 毒づきながら立ち上がろうとした妃奈子が突然前のめりによろめいた。幸は咄嗟にタバコを放って倒れてきた妃奈子を右手で受け止めた。
「…全然大丈夫じゃないみたいだな」
「ご、ごめ…ごめんなさい、大丈夫。ただの立ちくらみ、立てる」
 必死で妃奈子は取りなすが、さっきまでの態度とは裏腹に幸の腕にしがみついているのが精一杯といった様子だ。幸は妃奈子を静かに見下ろす。
「無理すんな。腕ならいくらでもしがみついてていいから。じっとしてろ」
「違…ほんとに、ヘイキ」
 幸の肩に額を押しつけながら妃奈子はうめくように言った。幸は空いた方の手を妃奈子の後頭部に軽くぽんとあてた。
「いいから、静かにしてな」
 妃奈子の押しあてている額が心なしか熱いような気がした。
 時間にしてほんの数十秒が数分にも数十分にも感じた。
 やがて妃奈子がゆっくりと、怒ったような表情で顔を離す。
「…落ち着いた。もう帰ります」
「あそ、そりゃ結構」
 ふと下を見た幸はさっき放り投げた吸い殻を拾った。
「こんなとこで隠れてタバコ吸って、不良教生ですよね」
「ハイハイ、仰るとおりです」
 建物の外側に張り付いたような非常階段と建物内とを仕切っている、金属の重いドアを開けようとすると、妃奈子が服の袖を引っ張って止めた。ナニ? と幸の目が問いかける。
「あの、さっきの」
「ああ、別に抱きついてきたことなんて言いふらしやしないよ」
 妃奈子の顔が再びぱっと赤く染まる。
「そんなの当たり前です」
「あーそうですか」
「…そうじゃなくて、噂話、友達に聞いてみてもいいですけど」
 肩越しに妃奈子を見た幸は片側の眉をぴくりと上げる。
「なんだか急にえらく協力的だねぇ。…別に無理しなくていいよ」
「無理なんかしてません」
「フーン」
 ドアを開けると幸は妃奈子に構わずさっさと歩いていく。初めて出会った、保健室から戻る時と同じだった。
「なんでそうやってどんどん先に行っちゃうんですか」
 幸は止まって振り返る。呆れたように妃奈子を見た。
「待って欲しいけりゃ、待てって言えばいいでしょうが」
「別に、待って欲しいなんて思ってません」
 妃奈子は頬を赤くしたまま幸を追い越して行く。吹き出しつつ幸は言った。
「素直じゃないねぇ」


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