----- 君たちは嘘つき


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「保苑君は例の噂についてどう思う?」
 実習も二、三日を過ぎて幾分学校にも慣れた頃、教生同士で学食を囲んでいると英語の教生の中尾が尋ねた。幸はうどんといなり寿司のセットをつつきながら怪訝な顔をする。
「例の噂って何よ?」
 何も知らないらしい別の教生がキョトンとした顔で言った。中尾は嬉々として説明する。ひとしきり説明し終わると中尾は改めて幸の方を向いた。
「まあ、真偽はともかく、いざ内部に潜入してみると呆れるくらい何もないね」
 幸はいなり寿司を頬ばりながら答えた。中尾の話を聞いていた教生がそうかと呟く。
「やたら教育熱心だなって感じがしたのは噂をかき消そうと必死だからなのね」
「そうそう、知ってる? ここの校長って生物学会ではけっこう名の知れた人なんだよ。昔、大学の教授をやってたこともあってさ。今はもう教壇に立つことはないそうだけど、生物部の特別顧問を勤めてんだって。俺、今回それが楽しみでさ、部活動ちょっと覗かせてもらうつもりなんだ」
 理科の教生のその男は嬉しそうに言った。一同はへえとその教生を見つめた。
「そうことがかき消されるほど例の噂は強力だな」
「俺は少し遊んでやろうかと思ってる」
 幸の意味ありげな物言いに、向かいの席に座っていた教生が不思議そうな顔をした。幸はにやりと笑うと続けて言った。
「公民の授業で少年法について触れてみようかなと思ってさ」
「うわ、君キツいなぁ。もしそのクラスに陰でなんかやらかしてる奴がいたらビビるだろうな、そりゃ」
「どうかしら。そんなことしてる連中が、こんな穏やかな雰囲気を保ち続けられていられるのだとしたら、ちょっとやそっとじゃ動じない気がするけど」
「それもそうだな。高校生がそんな器用なこと出来ないとすると、噂はあくまで噂ってとこか」
 教生達が口々に言い合う中、ある教生がぽつりと呟いた。
「それにしても保苑君は余裕だなあ。僕はカリキュラムこなすので精一杯だよ」
「俺も同じだよ。苦し紛れの策さ」
 幸はふっと口を歪めて笑った。
 ふと目をそらした先に妃奈子の姿が映った。友達と喋りながら肩を揺らして笑っている。ああいう表情もするのかと幸は軽く目を見開いた。

 保健室の件以来、幸は何かと妃奈子が気になって目で追うようになっていた。彼女のどことなく漂う後ろ暗さは、例の噂と関連があるような気がしてならなかった。
 よくよく観察すると妃奈子は校則でもないのに、いつもきっちりと三つ編みのお下げ髪にしている。このくらいの年頃は規制された中をかい潜って、それなりに着飾ろうとするのに余念がないはずなのだが、妃奈子にはそのような様子が見られない。
 男に媚びる気もないから、ああもあっさりとしていられるのだろうか。だが妃奈子には洒落っ気はなくともそれを打ち消す、人を惹きつけるものがあった。
 賑やかにに笑っていた妃奈子がふいに顔を上げた。こちら側を向くように座っていたのでもろに幸と目があった。途端に妃奈子の表情が険しくなった。周りにいた子の問いかけに妃奈子は何も言わず首を振って食堂から出ようと促した。
 幸は訝しむように妃奈子をじっと目で追った。
 彼女は何故頑なに男を拒むのだろうか。


◇ ◇ ◇


 後日、幸は本当に二年のあるクラスで教生達に宣言したことをやってのけた。
 だが準備室に戻るなり、神田にお小言を食らう羽目になった。
「俺もあの噂が本当だとは思ってないけどさ、中には過敏な生徒もいるんだよ。俺なんかがさらっと流す分にはいいだろうけど、教生が教えるとなるとそれなりに印象が強まるからほかのことにしといてよ」
「はい、すいません」
「まあ、内容的にはけっこう面白かったけどね」
 動揺を隠すように、神田はタバコを思い切り吹かした。
「しかし度胸のある奴だね、いきなり変えるなんて。俺の方がビビったじゃないか」
 幸は思わずくすっと笑ったが、神田は笑いごとじゃないよと幸を睨み付けた。
 少年法について実にねちっこく展開してやったのだ。当然何かしらの反応を期待したのだが、思ったよりも生徒達に狼狽している様子はなかった。確かに神田の言うように、神経質そうな生徒の何人かは顔が強張っていたようだったが。
 それを聞いた中尾はさもおかしそうに豪快に笑った。休み時間に中尾に誘われ、幸は咥えタバコで非常階段の手すりに寄りかかっていた。中尾は感嘆した表情で幸を見る。
「まさかとは思ってたけど、ほんとにやるとはねえ」
「おかげでまた授業内容の練り直しだよ」
「でも気分いいだろう。してやったりって感じでさ」
「まあね」
 幸はにやりと笑う。タバコの灰が風に乗ってひらひらと飛んでいった。それを見ながら中尾は半ば呆れた口調で言った。
「それにしても、よく吸うねえ。僕は何だか気が咎めて遠慮しちゃってるけど」
「神田先生なにも言わないから構わないのかと思ってた。やっぱまずいかな」
「だって教室以外はずっと吸ってるんだろう? セブンスターってキツいのに」
 幸は自分の口元を見つめた。確かに普段より本数は多い。ストレスだろうか。幸はポケット灰皿を取り出した。さすがに吸い殻はきちんと始末しておかないと、いらぬ迷惑を掛けてしまう生徒がいるかもしれないので常備するようにしている。
 そうこうしているうちに幸はあっと声を上げた。中尾が驚いて幸を見る。
「やっべ、資料用意しなきゃなんないの忘れてた。ごめん、もう行くわ」
 中尾は開けたドアを体で支え、片手を挙げながら駆け出す幸に向かって手を振った。
 

◇ ◇ ◇


 社会科準備室に戻ると神田や他の教師は席を外していた。神田に言われて朝に揃え直しためぼしい資料をコピー機に突っ込むと、大きく息をついて幸は席に着く。気付いたときにはもうタバコに火がついている。中尾の言うとおりだと幸は一人で笑った。
 教材をチェックしているとドアをノックする音がした。どうぞと言いながら、入ってくる者には目もくれずに幸は実習日誌を広げた。
「あのう、神田先生に言われてプリント取りに来ました」
 声を聞いて幸は思わず顔を上げた。妃奈子が仏帳面で立っている。そういえば週番は妃奈子だった。
「あー。もちょっと待って。入ってていいから」
 幸が促すと妃奈子は無言で戸を閉めた。入り口の近くにある地図やなにかをぐるりと見回していたが直ぐに落ち着かなくなり、日誌にペンを走らせ始める幸を急かす。
「できれば昼休み中に配っちゃいたいんですけど」
「んー、悪いね。間に合わないわ」
 全く取り合う気のない幸に妃奈子はムッとしたようだ。
「…あのー」
「文句ならそのボローいコピー機に言ってね」
 ボールペンで幸がコピー機を指し示すと、妃奈子は自分の横でのろのろと吐き出されていく紙の束を見つめた。
「どれだけあるんですか」
「6部かける40枚」
「いつから始めたんですか」
「さっき」
 妃奈子はすっかり呆れ果てて幸を見た。
「座って待ってれば」
 幸は脇にある椅子を勧めたが、妃奈子はそれを無視して窓際へ向かう。窓枠に凭れて地面を見下ろしている。風に吹かれて微かにシャンプーの甘い香りが幸の鼻をかすめた。
「俺の目の前で飛び降りないでね」
 冗談めかしてそう言うと、妃奈子は弾かれたように振り返った。
「そんなことしません」
「そりゃよかった」
「…ここからならよく見えるんだ。きっと痛かったよね」
 幸に向かって言ったのか、独り言なのか、妃奈子はどちらともつかない様子で再び外を見やりながら呟いた。“痛かった”というのはきっと転落死した女子生徒のことを指しているのだろう。幸も初日にここから現場が見えることを神田から聞いていた。
「痛みよりも落ちてる間の恐怖でしょ」
 幸は黙々と書き込みながら、さらに駄目押しのように付け加える。
「痛みなんてあの高さだとないね。即死だったんだろ?」
 なんでこうも冷淡な言い方をするのだろうと、妃奈子は大きな目を細めて幸を睨む。
 広い背中を小さくしながら書き物を続ける幸の、鳶色の柔らかそうなくせ毛が風に吹かれて揺れている。保健室からの帰り際に見上げた瞳も髪と同じように鳶色をしていたことを妃奈子は思いだした。
 妃奈子に見つめられているとも知らず、幸は日誌を閉じると立ち上がった。妃奈子は慌てて顔を逸らせる。幸は口にくわえていたのを揉み消し、新たに取り出し火を付ける。
 窓際までくると窓枠の上方に手をあて、妃奈子の隣で同じように外を覗き込んだ。花が供えられてはいるが、学校側にしてみれば本当はもう消し去りたい出来事に違いない。真横に立った幸は真っ直ぐ妃奈子を見つめた。
「体の調子はいいの?」
「どうして?」
 それを見上げる妃奈子は、蛇に睨まれた蛙のように体を緊張させている。分かっててわざと横に立ったのだが、思った通りの反応に幸は吹き出しそうになった。
「だってアンタ、ぶっ倒れた及川さんデショ?」
「あのときは…、センセイに話すことじゃないです」
「あっそう」
 妃奈子は怒ったような顔をして俯くと赤面した。これ以上つつくのは可哀相かと考え、外に向かって煙を吐き出した。風向きで隣にいた妃奈子の方に全部流れていったので、妃奈子は幸を睨み付けてわざとらしくゴホゴホと咳をしてみせる。ああすいませんねえと幸は返したが、言っただけで消す気は全然なかった。
 妃奈子は眉間にしわを寄せて再び窓の外を見る。やがてぽつりと呟いた。
「何でこんなに弱っちくなっちゃったんだろう。もう自分の体じゃないみたい」
 幸は妃奈子を見た。一瞬、どう返して良いか分からなかった。
「…成長期だからいろいろあるんでしょ、きっと」
「もうやめて下さい」
 妃奈子は強く言うと、不意に側の机からハサミを掴んで、幸の指の間にあるタバコの先をちょん切った。火のついた先が足下に落ちて、幸は思わずうわっと声を上げた。
「なにすんだよ、危ねえな」
「匂いが制服に付くと生活指導にいろいろ言われるからイヤなんです」
 悪かったよ、と今度は本気で謝りながら手元に残った方のタバコを灰皿に捨てる。せめて生徒の前では吸わない方がいいのかもと思ったが、妃奈子のような真面目な格好に文句を付ける教師がはたしているのだろうか。
 それに今の『やめて』というのはタバコのことではなく、詮索することの方ではないのか。幸はかがみ込むと、足下に転がった火種も灰皿に移す。床にかすかに黒く焦げた跡が残ってしまっていた。あーあ、と非難の目で妃奈子を見上げると、妃奈子は拗ねたような表情をわずかに見せ、ふいっと視線を逸らせる。幸は苦笑した。
「…飛び降りた方がずっと楽だったんだ、きっと」
 妃奈子は窓枠をぎゅっと掴んで吐き捨てるように呟く。幸は目を細めて妃奈子を見た。
「知り合いだったの?」
「違います。…でも分かるような気がする」
 やはり彼女からは何か暗い影が滲み出ている。
 そう幸が思って立ち上がった瞬間、何やら上の方から甲高い声が微かに聞こえてきた。幸が見上げるとつられて妃奈子も訳が分からないまま見上げる。直後、窓の外に大きな黒い影が降ってきた。妃奈子が叫び声を上げる。幸は妃奈子を庇うように自分の方へ引き寄せた。妃奈子も幸の上着を掴んですがりつく。
 その影はそのまま地面に向かっていき、鈍い音を立てた。
 女子生徒達の叫び声が響く。幸は窓の下を覗き見ると妃奈子を部屋の奥へ押しやった。妃奈子はそのまま後ずさりしてぺたんと座り込む。
「プリント持って、すぐ教室に行っとけ」
「でも」
 妃奈子はすがるような声を上げた。今にも泣き出しそうだ。
「いいから行け」
 幸が強い口調で言うとようやく妃奈子はよろよろと立ち上がった。
「ああーちくしょ、ヤなもん見た」
 幸はそう呟くと教室を飛び出した。


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