----- ファム・ファタールと羊の夢


   >>> 6



 長い時間、二人は言葉も交わさずにひとつ屋根の下にいた。 
 しばらくの間、ネリネは溢れてくる涙を手で拭い続けていた。男はそれが気に入らないのか、憮然とした表情を崩さずにパソコンの画面を睨み付けていた。
 次第に曇りガラスの外が闇に包まれていく。ネリネは時間の感覚を失いかけていた。ここへ連れてこられてから、間違っていなければ2回目の夜が訪れようとしているはずだが、もう自信はなかった。
 自分が人間ではないと男に判断されてしまった以上は、いずれ保管倉庫へ送られるのだろう。そう考えると恐怖で目の前が涙で覆われてしまう。一体どのような形で自分の生命装置は断たれてしまうのだろう。体のどこかにスイッチのようなものでもあるのだろうか。そうでなければ、センサーみたいなものでも備わっていて、リモコンで作動するのだろうか。考えれば考えるほど、自分のことが分からなかった。
 くすん、とネリネは鼻を鳴らした。
 昨夜は感じなかったが、この部屋は夜になると冷えるらしい。その寒さに気がついて、ノースリーブのワンピースしか身に纏っていないネリネはぶるっと体を震わせた。
「いつまでメソメソ泣いてる気だ」
 突然、男の低い声が部屋に響いて、ネリネは弾かれたように顔を上げた。男は依然、不機嫌そうにネリネを見つめ、ノートパソコンを閉じて立ち上がる。その一挙一動を目で追うネリネに、男は上着を放り投げた。
「子供じゃあるまいし。お前は二十歳と設定されてるんだろうが」
「ごめんなさい」
「謝るな」
「ごめ……」
 男に睨まれてネリネは慌てて口をつぐんだ。
「お前は空腹感もあると言ったな」
 咄嗟には何のことか分からず、ネリネがぽかんとしていると男は目を細めた。
「腹は減らないのかと訊いたんだが」
「へ、減ります」
 ネリネは腰を上げた。
「何を食べるんだ。ゴトウに何か指示されているのか? 流動食か? それとも……」
「昨日は、鶏肉じゃがを食べようと思っていました」
「はあ?」
 男が間の抜けた声を上げた。
「あの、鶏肉で肉じゃがを作るのです。牛肉よりもあっさりしていておいしいです」
「俺が訊いたのはそういうことじゃない」
 ネリネの頬が微かに赤く染まる。
「まあいい。得体の知れないモノが必要なわけではないらしいな」
 男はキッチンへ向かった。鍋にペットボトルの水をあけるとカセットコンロに火を付けた。
 やがて男が差し出したものに、ネリネは不思議そうな顔をした。
「これは何ですか」
「カップラーメンを食ったことがないのか」
「カップラーメン?」
 オウム返しに訊くネリネに、男は顔をしかめた。
「まさかこの手のモノが食えないとは言わないだろうな」
「食べたことはありませんが、ラーメンなのでしたら、きっと大丈夫です」
 ネリネは恐る恐る受け取った。
「ったく、大したロボットだぜ」
 男は舌打ちをするとテーブルへ戻り、ずるずると音を立て始めた。

「あの」
 恐る恐る声を発したネリネに、男は僅かに顔を上げただけだった。
「本当に私が使ってもいいのでしょうか」
 ベッドから顔だけ覗かせていたが、相変わらず男が黙ったままなのにいたたまれず、体を起こした。
「やっぱり、私は……」
「お前が使えと言ったはずだ」
 ベッドから片足を床に下ろしかけたネリネは動きを止めた。
「はい」
「二度も言わせるな」
「はい……」 
 ネリネは再び足をベッドの中へ引き込む。
 男は相変わらず、ぱちぱちとキーボードを叩いていた。時折、深く息を付く。
 昨日もネリネはこのベッドを使っていたはずだが、男は一体どこで眠ったのだろう。そして、今夜はどうする気なのか。
 そもそも、回収されるロボットという身の上の自分を、ベッドで寝かせようという意図がネリネには分からなかった。
 くるまった毛布の隙間から、男を盗み見る。
 特徴やクセをなくしている、と言っていただけあって、似顔絵を描けと言われてもそのパーツを容易に表現できない。ごくありふれた顔つきだとネリネは思った。だが、その顔が不細工かというとそうではなかった。小綺麗だが、印象に残りにくい顔。
 中肉中背の体つきもそうだ。日本人の平均的な体型と言ってもいいだろう。
 高圧的なものの言い方は最初のうちはネリネに恐怖心を植え付けたが、今は怖いとは思わなかった。むしろ人と親密に接することをしなくなっていたネリネにとっては、男の所作など大したことではなかった。こうして誰かと会話をすること自体が新鮮だった。
 こほん、と男が小さく咳をする。その音にハッとしたネリネはうとうとと眠りに落ちかけていたことに気がついた。
 寝返りを打つと、ネリネは目を閉じた。


*   *   *


 微かな寝息に気がついて、男はパソコンの画面から目を離した。そのまま、じっと耳を澄ませながら宙を見つめる。
 様相を変えた自分に、ネリネはすぐに気がついた。
 ドアから入ってきた男が何者であるか、それが分かると途端に警戒心を解いて、ホッとしたような表情を作る。そんなネリネは、男に飼い犬でも相手にしているような錯覚を起こさせた。
 人工物ではない、この世に生を受けた生き物。
 男は立ち上がると、静かにベッドまで近付いた。
 ベッドに埋もれるようにしてネリネは眠っている。その顔は、すっかり安堵しているようで穏やかだった。
 額にかかる柔らかそうな前髪。
 瞼を閉じて重ねられた睫毛の一本一本。
 僅かに開いた、薄紅色の唇から漏れる寝息。
 男はネリネをじっと見つめた。
 その柔らかさに、折れてしまうんじゃないかとひやりとした腕。
 いつもの相手とは異なる、掴んだときのその感触を思い出した。
 車の中で自分の前に投げ出された白い足。その先の紅い爪。
 不意に、ネリネが小さく唸って寝返りを打ち、男は我に返る。
 思わず止めていた息をゆっくり吐きながら、男は目を閉じた。
 俺は試されているんだろうか。
 なぜ、こうも人らしく作られているのだろう。
 なぜ、こんなにも自分が消してしまった感情をさらけ出すのか。
 死にたくないと哀願する。
 押さえ込んだものに怯える。
 子供のように泣き続ける。
 心細そうに寒がる。
 好きな食べ物について興奮して語り、
 初めて口にする物に不思議そうな顔をする。
 すべてが今まで対峙してきたものとは大きくかけ離れていた。
 とうの昔に無くして忘れかけていた気持ちが沸々と甦り初めて、微かに動揺する自分に気がついた。
 この仕事でカモフラージュされていたことを、初めて指摘された。
 誰にも気付かれないと思っていたことを。
 確かに、
 自分の目は、何も映してはいなかった。
 正確には、
 何も映そうとはしなくなっていた。
 そういう自分にこの仕事はとても向いていたし、さらに磨きを掛けるように機械に近付くよう努めてきた。
 有利に立つ為に。
 それを一瞬にして見破られた。

 男は目を開ける。
 ネリネの顔を見つめたまま、後ろ手で腰の辺りを探ると、突っ込んでいた銃を取り出した。
 ゆっくりと、ネリネの額に向ける。

 これは、世間に対して害を及ぼすわけじゃない。
 機関に害を与える存在だ。
 そして俺自身に。


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