----- ファム・ファタールと羊の夢 >>> 5 目の前がぼうっと霞んでいた。 しばらく、これはどういうことだろうと考えて、ネリネはまた目を閉じた。 すべては夢だったのだ。 私がロボットであると疑われている夢。 なんてあの男は恐ろしいのだろう、とネリネは憎悪で眉間にぐっと力を入れた。 目が覚めれば、きっと全ては元通りなのだ。 私は自分の部屋で目が覚めて、そして、いつも通りの生活が繰り返される。 そう、もしかしたら、薬の副作用でこんな不思議な夢を見てしまっているのかもしれない。これは、定期検査で医師にうち明けるべき事柄だろうか。 そういえば、今日は定期検査を受ける日だ。 夢ならば、目を覚まして憂鬱なあの病院へ行かなくては。 今回の検査を受けて、次の検査までに同じ夢を見るようなことがなければ、これは一時的なものだと見なすことが出来るかもしれない。 私がロボットなどと、どうしてそんなことが出てきたのだろう。 二ヶ月前のテレビのニュースで見た、あの人間型ロボットの影響だろうか。 私が、あのマネキンのようなつるりとした薄っぺらい顔をしているというのだろうか。 そんなことはないはずだ。 今朝も、顔を洗って、鏡で見て確認をしたはずだ。 私はロボットではない。 ロボットではないが、人間だという確固とした証拠はない。 だが、多くの人間はそのようなことを考えているだろうか。 自分が確かに人間だと言える理由。 私にはそれは分からない。 夢の中で、私は腕を傷つけていた。 その行為は証拠となったのだろうか。 私にはそれは分からない。 分からない。 私には何も分からない。 何も。 ……。 ネリネの思考はそこで途切れた。 力を入れていた眉間も次第に緩んでくる。 再び、ネリネはローレライの歌に吸い寄せられる舟人のように、ゆっくりと睡魔の底に向かって沈んでいった。 * * * 眠り続けるネリネを、男は頬杖を突いてテーブル越しに見つめていた。 検査キットで調べた結果、ネリネの血は人間の血液と同じだった。 だがネリネが気を失った途端、血は急速に止まった。簡単な処置を施したが、眠っている間に傷が塞がりそうな勢いで回復し始めていた。 やはり、ネリネが人間とは思えない。 驚異的な回復力は何の為だろうか。セクサロイドとして用いるために、ゴトウがネリネを作ったのならば、なぜ彼女と接触を持たないのだろうか。否、定期検査と称して、実は性的な行為を行っているのかもしれない。ネリネに自覚がないのは、記憶装置を操作して、都合の悪い部分を消去か何かしている可能性もある。 ゴトウと交渉を持っているかどうか、調べようと思えば調べられる。ネリネが眠っている今ならそれは容易だ。その部分が体の表面とは違って人工物で作られているのならば、ゴトウの体液を採取できる率も高い。 だが、ネリネのあのリアルさが男にそれをさせる気力を奪っていた。今までならば、機械と割り切れるだけの人工的な要素があった。しかし、今のところネリネにそう言った部分は感じられない。人間でないことはほぼ間違いないが、ロボットとしての機械らしさがまるでなかった。 男はゆっくりと息を吐いた。 頑なに自分をロボットと認めない。これは大抵の不法ロボットにプログラムされている、一種の防御システムのようなものだ。自分のような機関の人間に対する、抵抗の為の反応に過ぎない。 しかし、今までネリネのように自分の体を傷つけて、ロボットではないと証明しようとしたロボットはいない。そもそも、プログラムでもされていない限り、ロボットが自ら自傷行為に走るなどということはありえない。 そのくせ、自己回復プログラムでも働いているのだろうか、ネリネは一向に目を覚まさなかった。 限りなく人間らしく作られた機械。それも身震いするほどに。 男は突然、テーブルの上に転がっていた検査キットの薄い板ガラスを手に取った。その端を指先に押し当てた。ぷつっと血の玉が膨れ上がる。 確かに、自分には血が流れている。 だが、それはネリネにも流れている。 男はしばらくその指を見つめていたが、鼻で笑うと立ち上がった。 どうかしている。きっと、腹が減っているせいだ。 そう決めつけると男は部屋を出た。 目が覚めたとき、ネリネはいつもとは違う匂いに気がついた。 体に掛けられている毛布は随分と使い古されていて薄っぺらかった。寝返りを打って枕に横顔を押しつけるが、気に入っている薄いブルーで統一された枕カバーやベッドシーツではなかった。やはり、自分の知らない匂いがした。 ようやく体を起こして、目の前に広がる部屋の光景が、夢ではないことをネリネは思い知らされた。 現実だったのだ。 そして、切り付けたはずの腕を見た。確かに一本の切れ目が腕に残っていたが、既に傷は塞がりかけていた。これはどういうことだろう。 ゆっくりと辺りを見渡したが、自分をここへ連れてきた男はいない。ネリネはゆっくりとベッドから降りた。喉の乾きを覚えて、ネリネは冷蔵庫がないことに気がついた。この部屋には生活感はまるで感じられない。ホテルか何かのようだった。もっとも、男は仮の住まいだと言っていたから、必要最低限の物しか置いていないのかもしれない。 とはいえ、水道の水を飲む気にはなれなかった。建物の古さ、ひと気のなさからいって、蛇口から綺麗な水が出てくるとは思えなかった。 途方に暮れて溜息が漏れたときに、玄関の戸がいきなり開いた。 ネリネは咄嗟に体を縮こませて振り返る。ニットキャップを深く被り、スケーターのようにだぼっとしたパーカーとジーンズに身を包んだ若い男が、コンビニの袋を下げて立っている。ネリネは天敵に遭遇した小動物のように、その場に固まった。 「やっと起きたか」 その男は後ろ手に戸を閉めると、テーブルへ雑に袋を置いた。 「あ」 間近に男を見たとき、肩の力が抜けてネリネはほっと息をついた。 「ふん、やはりお前はすぐに見破るんだな」 若い男は、ネリネを拉致してきた男だった。スーツ姿の時とはまるで別人で、一見しただけでは容易に分からないほど男は様変わりしていた。 「つまり、お前が気配に気がついても、存在まで確かめることが出来なかったのはこういうことだ」 男はそう言いながら、ネリネに向かってペットボトルの水を放り投げた。 「水道の水は飲まない方がいい」 「ありがとうございます」 「もっとも、多少汚水を飲んだとしてもお前には濾過装置が付いてるかもしれない」 男は嫌味っぽく言うと鼻で笑った。 ネリネはペットボトルを両手でぎゅっと掴むと男を見据えた。 「やはり私はロボットなのですか」 「その腕の傷があっという間に治るのをこの目で見たからな」 十中八九そうだろう、と男は上着を椅子に掛けながら言った。 ネリネは自分の腕を見下ろした。 「何の処置もなしに傷が治ったのですか」 「ああそうだ」 不意に声が間近で聞こえてネリネは顔を上げた。目の前に男が立っている。ネリネは体を強張らせた。目には恐怖の色が映り、ふるふると顔を横に振る。男が腕を掴むとネリネの手からペットボトルが落ちた。 しんと静まった部屋にごとんと鈍い音が響いた。 「……や、……いや、嫌です。嫌……」 うわごとのようにネリネの口から震えた声が漏れた。 「やめてください。嫌……、私は死にたくありません」 黙って見下ろす男の目は、ネリネの反応を窺っているようにも見えた。 「イヤ、怖い、死にたくない……」 ネリネは身を捩って男から逃れようとしたが、男は無表情でネリネを捕まえていた。 「やめて、お願い、そんな目で見ないで!!」 ネリネは叫んだ。男は思わず掴んでいた手を離した。反動でネリネは床に倒れ込んだ。荒い息を吐きながら、ネリネは腕を押さえた。男の手の跡が赤く残っていた。 「……そんな目?」 男はネリネの腕を見ながら呟いた。 「あなたの瞳には何も映っていません」 見上げるネリネの目から雫が床にこぼれ落ちた。 「私を見つめていても、私を見ていません」 「それが怖いのか」 男はネリネの前にしゃがみ込んだ。ネリネはじりっと後ずさりながら、頷いた。男はネリネをじっと見つめていたが、やがて静かに立ち上がった。怯える瞳でネリネはその姿を追う。 「ふざけるな」 吐き捨てるように男は言って、パソコンの前に座った。 両腕で体を抱き込むようにしてその場にしゃがみ込むネリネの目から、再び涙が頬を伝った。 Copyright (C) 2003 Mutsu Kisaka All Rights Reserved. |