|コラム||森家史料
森家年譜 2【森 可成(可成院殿)〜長可(雄心院殿・東源院殿)
−大永3(1523)〜天正12(1584)−
更新 2008/5/6

《年譜》
年 号 西 暦 干 支 天 皇 将 軍 事 項 森家当主
大永3 1523 癸未 後柏原 足利義晴 ☆是歳 美濃国羽栗郡蓮臺に於いて森越後守可行の嫡男満(後の三左衛門可成)誕生す。母は青木秀三女、又は大橋和泉守重俊女とも〔大系図、伝記乾〕。 可成(1)
大永4 1524 甲申 後柏原 義晴 ☆是歳 美濃国本巣郡(又は安八郡とも)の林新右衛門通安に女子(のちの可成室妙向尼)誕生す〔実録3〕。 可成(2)
大永5 1525 乙酉 後柏原 義晴 可成(3)
大永6 1526 丙戌 後柏原
後奈良
義晴 可成(4)
大永7 1527 丁亥 後奈良 義晴 可成(5)
大永8
享禄元
1528 戊子 後奈良 義晴 ★8.20 改元
☆9. 8 森越後守可秀、近江朽木小谷に於いて戦死す。法名「羽林院宗仙」、近江矢嶋小林寺に葬られる〔実録1、大系図〕。
可成(6)
享禄2 1529 己丑 後奈良 義晴 可成(7)
享禄3 1530 庚寅 後奈良 義晴 可成(8)
享禄4 1531 辛卯 後奈良 義晴 可成(9)
享禄5
天文元
1532 壬辰 後奈良 義晴 ★7.29 改元 可成(10)
天文2 1533 癸巳 後奈良 義晴 可成(11)
天文3 1534 甲午 後奈良 義晴 可成(12)
天文4 1535 乙未 後奈良 義晴 可成(13)
天文5 1536 丙申 後奈良 義晴 可成(14)
天文6 1537 丁酉 後奈良 義晴 可成(15)
天文7 1538 戊戌 後奈良 義晴 可成(16)
天文8 1539 己亥 後奈良 義晴 可成(17)
天文9 1540 庚子 後奈良 義晴 可成(18)
天文10 1541 辛丑 後奈良 義晴 可成(19)
天文11 1542 壬寅 後奈良 義晴 ☆是歳 各務勘次郎(元正)、誕生す〔実録5〕。 可成(20)
天文12 1543 癸卯 後奈良 義晴 可成(21)
天文13 1544 甲辰 後奈良 義晴 可成(22)
天文14 1545 乙巳 後奈良 義晴 可成(23)
天文15 1546 丙午 後奈良 義晴
義藤(義輝)
可成(24)
天文16 1547 丁未 後奈良 義藤 可成(25)
天文17 1548 戊申 後奈良 義藤 可成(26)
天文18 1549 己酉 後奈良 義藤 可成(27)
天文19 1550 庚戌 後奈良 義藤 可成(28)
天文20 1551 辛亥 後奈良 義藤 可成(29)
天文21 1552 壬子 後奈良 義藤 ☆是歳 可成長男傳兵衛可隆、羽栗郡蓮臺に於いて誕生す。母は林新右衛門通安女〔実録3、大系図〕。織田信長麾下(のち長可麾下となる)の関小十郎右衛門共成(長安・成政)、尾張一宮にて誕生す〔寛永、寛政〕。 可成(30)
天文22 1553 癸丑 後奈良 義藤 可成(31)
天文23 1554 甲寅 後奈良 義輝(義藤) 可成(32)
天文24
弘治元
1555 乙卯 後奈良 義輝 ☆4.20 織田信長、織田彦五郎と合戦。森可成、彦五郎の首級を取る〔寛永、大系図〕。
★10.23 改元
可成(33)
弘治2 1556 丙辰 後奈良 義輝 ☆ 5 林佐渡守貞秀(通勝)兄弟・柴田権六勝家等、信長弟織田信勝(信行)を擁して謀反。稲生にて合戦す。森可成、この合戦に戦功あり〔軍記、寛永、大系図〕。     可成(34)
弘治3 1557 丁巳 後奈良
正親町
義輝 可成(35)
弘治4
永禄元
1558 戊午 正親町 義輝 ★2.28 改元
☆是歳 美濃羽栗郡蓮臺に於いて可成次男が誕生す。勝蔵と名付く(後の長可)。母は林新右衛門通安女〔実録4、大系図、伝記乾、寛政〕。
☆是歳 織田信長、尾張岩倉城を攻める(浮野合戦)。森可成、先登として活躍し敵軍大敗す〔軍記、寛永、大系図〕。
可成(36)
永禄2 1559 己未 正親町 義輝 可成(37)
永禄3 1560 庚申 正親町 義輝 ☆5.19 織田信長、桶狭間に於いて今川義元を討取る(桶狭間の戦い)。森可成、この合戦で四宮某の首級を得る〔寛永、大系図〕。
☆7.15 早朝、各務勘次郎元正(20歳)、本領の儀につき遺恨ありとて同名右京亮宅に押入る〔実録5〕。
☆是歳 蓮台に於いて森越後守可行の次男九一郎(後の對馬守可政)誕生す(永禄4年説あり)〔大系図、寛政〕。
可成(38)
永禄4 1561 辛酉 正親町 義輝 ☆是歳 蓮台に於いて森越後守可行の次男九一郎(後の對馬守可政)誕生す(永禄3年説あり)〔可政〕。 可成(39)
永禄5 1562 壬戌 正親町 義輝 可成(40)
永禄6 1563 癸亥 正親町 義輝 可成(41)
永禄7 1564 甲子 正親町 義輝 可成(42)
永禄8 1565 乙丑 正親町 義輝
義親(義榮)
☆是歳 可成、蓮臺を転じて美濃可児郡烏峯城を与えられ、金山と改める〔寛政〕。
☆是歳 可成三男蘭丸長定(乱丸成利)、金山に於いて誕生す。母は林新右衛門通安女〔実録3、大系図、寛政〕。
可成(43)
永禄9 1566 丙寅 正親町 義榮(義親) ☆ 織田信長、森三郎左衛門(可成か)に対し、下郷井水高前々の如く築く旨を末代まで保証す〔尾張〕。徇行記〕。
☆是歳 可成四男坊丸長隆、美濃金山に於いて誕生す。母は林新右衛門通安女〔実録3、大系図〕。
可成(44)
永禄10 1567 丁卯 正親町 義榮 ☆10 織田信長、美濃武芸八幡に前々の如く諸役を免除す〔武芸八幡宮文書〕。
☆10.3 可成・坂井政尚、美濃武芸八幡に対し制札の上は前々の如く異議なきことを保証す〔武芸八幡宮文書〕。
☆11.28 金森長近・可成・坂井政尚、美濃の長谷川三郎兵衛(か)に対し町並み諸役以下を免除す〔長谷川五郎兵衛氏所蔵文書〕。
☆是歳 可成五男力丸長氏、美濃金山に於いて誕生す(寛政には永禄12年)。母は林新右衛門通安女〔実録3、大系図〕。各務勘次郎元正、名を「清右衛門」と改め、可成に仕える〔実録5〕。
可成(45)
永禄11 1568 戊辰 正親町 義榮
義昭
☆9.11 信長、近江箕作城を攻める。可成、竹邊源八等とともに先登す〔寛永、大系図〕。
☆9.29 可成、勝龍寺城を攻め、城主岩成主税助降参す。また摂津芥川・小清水・池田等の城も落とす〔寛永、大系図〕。
☆10.12 柴田勝家・坂井政尚・可成・蜂屋頼隆、京都とその付近(か?)に禁制を発し、当軍勢の乱妨・押買・押売等を禁止す〔武家事紀 中〕。
☆是頃 可成、洛中制法の奉行となる〔大系図〕。
☆是歳 可成四男坊丸誕生すという〔寛政〕。
可成(46)
永禄12 1569 己巳 正親町 義昭 ☆正.18 可成、織田信長の命を受け、山城阿弥陀寺に兵士の寄宿を免ず〔阿弥陀寺文書、史料10-1〕。
☆2.朔 佐久間信盛・可成等、河内天野山金剛寺に対し、将軍足利義昭を京都本圀寺に襲撃した懲罰として兵粮米1000石の賦課を命ず〔南行雑録 1〕。
☆3.2 佐久間信盛・可成等、摂津多田院に対し矢銭を免除す〔多田院文書 6〕。
☆4.1 柴田勝家・可成等、和泉堺両庄惣中に対して矢銭催促のため下着する旨を通告す〔岡本良一氏所蔵文書〕。
☆10.20 可成・中川重政・和田惟政、某に対して信長断りの子細を述べ、折紙を近江志賀郡へ遣わすよう命ず〔反町文書〕。
☆11.4 佐久間信盛・松井友閑等、京都妙心寺領横路分名主百姓等に対し梶井門跡応胤法親王違乱につき可成催促につき、年貢・諸役等をひとまず抱えるよう命ず〔退蔵院文書〕。
☆是歳 可成五男力丸誕生すという〔寛政〕。
可成(47)
永禄13
元亀元
1570 庚午 正親町 義昭 ☆正.24 飛鳥井雅敦、柴田勝家・森可成等に対して摂津本興寺に軍勢を駐めないように信長に申し入れた旨を報ず〔本興寺文書、史料10-1〕。
☆2.16 松永久秀の部将竹内秀勝、柴田勝家・森可成等、摂津本興寺に軍勢を駐むることを停止す〔本興寺文書、史料10-1〕。
☆3.20 可成、新砦を近江坂本に築き、今道、藁坂の二道を塞ぐ〔多門院日記、史料10-4〕。
★4.23 改元
☆4.25 可成長男伝兵衛可隆、越前手筒山に於いて朝倉軍と戦い戦死す(19歳)。法名「玉芳宗理禅定門」〔実録3、大系図、寛永、寛政〕。
☆是頃 各務清右衛門、越前に於いて武功あり〔実録5〕。
☆5 織田信長近江に発向につき可成、志賀・宇佐山の両城を守る〔大系図、寛永、寛政〕。
☆6 坂井政尚子久蔵(可成女−のちの関共成室−と婚約)討死す〔実録3〕。
☆8.12 可成、遠藤六郎左衛門尉に其所領を安堵せしむ〔遠藤文書、史料10-4〕。
☆9.16 朝倉義景・浅井長政等3万余騎を率いて近江坂本に至る。可成、防戦す〔大系図、寛永、寛政〕。
☆9.20 浅井長政、朝倉義景等、織田信長の虚を窺い南近江に出兵。長政等、信長の属城宇佐山を攻め城将織田信治討死す。可成も戦死す。法名「心翁淨翁大禅定門」、坂本来迎寺に葬る〔言継卿記、寸金雑録、史料10-4、来迎寺過去帳、大系図・寛永・寛政には19日〕。可成家臣(武藤・林・肥田・各務清右衛門元正)、兵を取り纏め宇佐山城を守る〔実録5〕。
浅井長政等、坂本に陣し山城山科・醍醐等を焼く〔史料10-4〕。
☆9.22 浅井長政、栖雲軒(六角氏家臣三上士忠〕に坂本合戦の勝利を報ず〔護国寺文書、史料10-4〕。
☆10.8 朝倉義景、斎藤新三郎に対し可成の首級を挙げた戦功を賞す〔寸金雑録、史料10-4〕。
☆10.17 森可成部下、山科言継へ薬の礼に参る〔言継卿記、史料10-4〕。
☆是歳 長可、父の遺領を継ぐ〔寛政〕。可成六男千丸(後の忠政)、金山に於いて誕生す。母は林新右衛門通安女〔実録5、大系図、寛政〕。
☆是歳 信長の部将中川瀬兵衛の次女「チボ」、誕生す。母は熊野田隠岐守資利女「やや」〔中川氏御年譜−文化・幕末撰定−〕。
可成(48)
長可(13)
元亀2 1571 辛未 正親町 義昭 ☆5.12 森越後守可行、美濃可児郡金山に於いて卒す(78歳・天正元年説もあり)。法名「紹徹」〔大系図、寛政〕。 長可(14)
元亀3 1572 壬申 正親町 義昭 ☆12.2 織田信長、呉服商人司伊藤惣十郎に対し他国の商売人の両国の商売を届け出るよう命ず〔寛延旧家集〕。
☆12.6 嶋田秀満・木下秀吉・長可等、呉服商人司伊藤氏に対し2日付け信長朱印状の旨を守るよう命ず〔寛延旧家集〕。
長可(15)
元亀4
天正元
1573 癸酉 正親町 義昭 ☆3 勝蔵長可、伊勢長嶋に於いて初陣。家臣渡部助右衛門・各務清右衛門元正武功ありて織田信長より賞される〔実録4、実録5、寛政〕。
☆7.16 足利義昭、宇治槙島城にて挙兵。長可、信長に従軍す〔実録4〕。
★7.28 改元。
☆是歳 森越後守可行、美濃可児郡金山に於いて卒す(80歳・元亀2年説もあり)。大龍山に葬る〔可政、大系図〕。
長可(16)
天正2 1574 庚戌 正親町 義昭 ☆是春 信長、丹波攻略。柴田勝家・丹羽長秀・明智光秀・瀧川一益・長可、丹波へ出兵す〔実録4〕。
☆是夏 信長、越前へ出陣。長可は府中瀧川寺へ攻め込む〔実録4〕。
☆7 長可・関小十郎右衛門、織田信長に従って伊勢長嶋城を攻める〔実録4、寛永、寛政〕。
☆8.9 伊勢長嶋一向一揆、織田信忠の本陣へ射撃。長可・関小十郎右衛門・稲葉伊豫守、これを撃退す〔実録4〕。
長可(17)
天正3 1575 乙亥 正親町 義昭 ☆5.1 武田勝頼、三河長篠城を包囲す〔実録4〕。
☆5.21 長可、長篠の合戦に参戦、旗・馬印を改める〔実録4、大系図〕。
☆是頃 各務元正、初めて可成室妙向尼の御前に召されて長篠合戦の働きを賞される〔実録5〕。
☆11.10 織田信忠、美濃岩村城を攻める。長可参戦す〔実録4〕。
☆11.21 岩村城守将秋山伯耆守信友等、信忠に降参す。信友等は岐阜へ送られ長良河原にて磔刑に処さる〔実録4〕。
☆是歳 可成弟森九一郎可政の女子「於鍋」誕生す〔可政〕。
長可(18)
天正4 1576 丙子 正親町 義昭 ☆是春 信長、摂津石山本願寺を攻める。長可も参陣す〔実録4〕。 長可(19)
天正5 1577 丁丑 正親町 義昭 長可(20)
天正6 1578 戊寅 正親町 義昭 ☆10.11 織田信長、斎藤新五郎へ上杉景勝の将河田長親の討伐を命じ、毛利秀頼・坂井越中守・長可を派遣する旨を報ず〔斎藤清太郎氏所蔵文書〕。
☆10.12 織田信忠、斎藤新五郎へ越中太田での戦功を賞し、且つ毛利秀頼に長可・坂井越中守・佐藤六左衛門を派遣した旨を報ず〔黄薇古簡集〕。
長可(21)
天正7 1579 己卯 正親町 義昭 ☆4 蘭丸(乱丸)、織田信長へ初出仕という〔実録3〕。
☆4.20 織田信長、蘭丸(乱丸)をして塩川伯耆守國満(治氏)へ銀子1000両を与えしむ(実録3では4月7日)〔寛永〕。
☆是秋 可成室妙向尼、織田信長の依頼により石山本願寺との和睦を周旋す〔実録3〕。
☆12 信長、翌年伊賀侵攻につき、雑賀者をして伊賀国内を偵察せしむ。蘭丸(乱丸)、雑賀者の計略を見抜くという〔実録3〕。
長可(22)
天正8 1580 庚辰 正親町 義昭 ☆正.6 播州三木城攻め。この際、長可家臣各務元正奮戦の上負傷し、織田信忠より外科医を遣わされる〔実録5〕。 長可(23)
天正9 1581 辛巳 正親町 義昭 ☆4.20 織田信長、蘭丸(乱丸)に近江に於て所領500石を宛行う〔尊経閣文庫文書、史料綜覧10〕。

☆7.25 織田信忠、安土着。信長、蘭丸(乱丸)をして信忠へ正宗脇差、織田信雄へ北野藤四郎脇差、織田信孝へ志の木(鎬)藤四郎脇差を与えしむ〔実録3〕。
☆是歳 この年より蘭丸(乱丸)、織田信長の奏者を勤めるという〔実録3〕。可成弟九一郎可政の長男次郎兵衛(のちの對馬守重政)誕生す〔可政〕。
☆是歳 名古屋因幡守の女(のち森家家臣各務四郎兵衛妻)、生まれる〔実録6〕。
長可(24)
天正10 1582 壬午 正親町 義昭 ☆正.22 織田信長、岐阜の織田信忠へ伊勢正遷宮の費用として鳥目1万貫を岐阜の土蔵より出すよう命ず。使者は蘭丸(乱丸)〔実録3〕。
☆正.25 伊勢上部太夫、堀久太郎秀政へ書を送りて伊勢太神宮正遷宮援助を願い出る〔実録3〕。
☆正.27 紀州雑賀攻め。織田信長、蘭丸(乱丸)をして、この戦いで戦功ありし斎藤六太夫へ小袖を与えしむ〔実録3〕。
☆2.6 織田信忠の先鋒森長可・団忠正・河尻秀隆等、木曽・岩村両口を攻める。武田勝頼の将下條信氏、伊奈・瀧澤の寨を守る。是日、其族九兵衞、信氏を逐い秀隆の兵を納る〔史料綜覧10、大系図、寛永、寛政〕。
☆2.14 信濃松尾城小笠原掃部信嶺、織田信忠に降伏。団忠正・森長可等織田軍、木曽峠を踰へ伊奈郡に侵入す。これにより同国飯田城坂西織部・保科正直、敗走す〔史料綜覧10〕。
☆2.23 織田信長、河尻秀隆へ対し信州攻めに関して長可・梶原平八郎景久の軽率な行動を厳禁す〔徳川黎明会文書〕。
☆2下 信州高遠城攻め。長可家臣各務元正・渡部・林高名す。織田信忠、これを賞す〔実録5〕。
☆3.1 織田信長、河尻秀隆へ対し信州攻めに関して長可・梶原景久らと調和を欠くことを叱責す〔徳川黎明会文書〕。
☆3.7 織田信忠、信濃上諏訪より甲府に入り、武田氏の宗族等を捜索して処刑す。又織田正信・森長可等をして、上野を平定せしむ〔史料綜覧10〕。
☆3上 長可家臣豊前采女・各務元正、命により長可御預の武田逍遙軒信綱(信廉)並びに信綱小姓河野某を殺害す〔実録5〕。
☆是歳 関小十郎右衛門、織田信長に従って甲斐国に出陣す[寛永]。
☆3.29 織田信長、旧武田領の知行割を命ず。甲斐を河尻秀隆に、駿河を徳川家康に、信濃高井・水内・更科・埴科四郡を長可に、伊奈郡を毛利秀頼に、美濃岩村城を団忠正に与えられる。また美濃金山・よなだ嶋は長可の戦功により蘭丸(乱丸)に与えられる〔信長公記、信長記、史料綜覧10〕。
☆4.2 長可、信濃和合院領に禁制を掲ぐ〔史料綜覧10〕。上杉景勝、諸將をして信濃長沼城を攻略せしむ。また景勝の將芋川正元、信長の將稲葉貞通を同国飯山に攻めて敗績す。又、長可、長沼城を復す〔史料綜覧10〕。
☆4.5 長可、信濃勝楽寺に禁制を掲ぐ。尋で同国康楽寺にもこれを掲ぐ〔史料綜覧10〕。
☆4.11 長可、窪島日向守に所領を安堵せしむ〔史料綜覧10〕。
☆4.20 織田信長、吉田右衛門督兼和へ勝軍法要祓並びに道服を贈ったことに対し謝す。使者森乱(蘭丸)〔大阪城天守閣所蔵文書〕。
☆4 織田源三郎正信・長可・団忠正、上野を平定。小幡備中守、人質を出して降参す〔寛永〕。長可、織田信長より信濃国更級・高井・水内・埴科4郡を拝領し、信濃海津城主となる〔大系図、寛永、寛政〕。
☆是春 可成6男千丸(忠政)、織田信長に奉公するも、母の許へ戻される〔実録5〕。小笠原信嶺、降参の御礼として織田信長へ久國太刀・ぶちの馬を献上す。奏者は蘭丸(乱丸)。信長、信嶺へ本領安堵の朱印状ならびに黄金100枚・左文字刀を与える〔実録3〕。
☆是頃 〔大系図、寛永〕。海津領に一揆発生。長可、鎮圧し織田信忠より感状を受く〔寛永〕。
☆5.2 長可、旧に依り塚原五郎左衞門をして、信濃坂木御堂山の草木を猥に伐採するを停止せしむ〔史料綜覧10〕。
☆5.27 織田信忠、森乱(蘭丸)へ信長の上洛を待つ故、至急許可を得て通報するように連絡す〔小畠文書〕。
☆6.2 織田信長、京都本能寺に於いて明智光秀の為に害せらる(本能寺の変)。これにより蘭丸(乱丸)成利(18歳・法名月江宗春居士)・坊丸長隆(17歳・法名宗徳居士)・力丸長氏(16歳・法名 宗泉居士)兄弟並びに伴太郎左衛門(森家家臣)、共に戦死す。遺骸は阿弥陀寺に葬られる〔阿弥陀寺過去帳、実録5、大系図、寛永、寛政〕。可成女婿青木次郎左衛門秀重も同じく討死す。法名「峯宗巌居士」、墓所阿弥陀寺〔実録3〕。
☆6.3 伴氏家来、近江甲賀に帰り本能寺の変を知らせる〔実録5〕。
☆6.4 伴右衛門尉(のち越前)惟安、甲賀の一族を伴って安土の可成後室妙向尼(千丸母)・千丸(忠政)を救出す〔実録5〕。
☆6.5 妙向尼・千丸母子救出の伴惟安、甲賀に帰り、母子を惟安宅に移す。また惟安、母子へ小袖を差上げる〔実録3、実録5〕。
☆6.8 柴田勝家、森長可等軍を退く〔史料11-1〕。
☆6 長可、本能寺の変で京都に向かうところ、春日周防守の謀反に遭うも撃退す〔大系図、寛永、寛政〕。
☆7.7 可成室妙向尼、子息蘭丸(乱丸)・坊丸・力丸の死を嘆き悲しみ、葬礼を執行。千本卒塔婆を造立す(中野千本卒塔婆)〔実録3〕。
☆9.11 長可、母妙向尼・弟千丸(忠政)を迎えるため甲賀に使者を遣わし、伴惟安、伊勢坂下にて母子を引き渡す〔実録5〕。
☆12.22 長可、美濃武儀八幡寺をして、其寺領を安堵せしむ〔史料11-3〕。
☆是冬 長可、神戸信孝に背き、信孝の老臣斎藤利堯を、加治田城に攻めてこれを落とす。東美濃の諸城、多く長可に属す〔史料11-3〕。
☆是歳 可成弟森宗兵衛可政、長可と不和につき退去す〔可政〕。
長可(25)
天正11 1583 癸未 正親町 義昭 ☆@.12 美濃神路城主遠藤胤基及び八幡城主遠藤慶隆、神戸信孝の為に、須原、洞戸両城を攻略す。信孝、これを賞す。羽柴秀吉、兼山城主長可等をして、胤基等を攻めしむ。和を講ず〔史料11-3〕。
☆是歳 可成弟可政、羽柴秀吉に仕えて黄幌の役となる〔寛永〕。
長可(26)
天正12 1584 甲申 正親町 義昭 ☆3.10 織田信雄、美濃大垣の池田勝入、恒興、同国兼山の長可等を招く。羽柴秀吉もまたこれを招く、勝入・長可、秀吉に応ず〔史料11-5〕。秀吉より長可へ駿河・遠江拝領の内意ありという〔実録3〕。
☆3.13 美濃岐阜の池田元助、同国金山の長可と、織田信雄の属城尾張犬山を攻め落とす。織田信雄・徳川家康、これをを聞きて、小牧に出陣す〔史料11-5〕。
☆3.15 長可、兵3000を率いて尾張羽黒まで出陣す〔大系図〕。
☆3.16 尾張羽黒にて合戦。長可、徳川方の酒井左衛門尉・奥平美作守・松平紀伊守の隊に不意を衝かれて退却す〔大系図〕。
☆3.17 美濃兼山の森長可、尾張羽黒に陣す。徳川家康の先鋒酒井忠次・奥平信昌等、長可を破る〔史料11-6〕。
☆3.23 美濃遠山の遠山半左衛門尉等、森長可の属城同国明知を攻める。徳川家康、これを賞す。家康、半左衛門尉の本領を安堵す〔史料11-6〕。
☆3.26 長可、遺書を尾藤甚右衛門に送りて後事を託す〔下村誠氏所蔵文書、史料11-6〕。
☆4.9 羽柴秀吉の将三好秀次・池田勝入(恒興)・長可等、三河に出撃するも、徳川家康、尾張長久手に襲ってこれを破る。勝入等戦死す。長可も井伊直政の鉄砲隊に眉間を打たれて戦死す(27歳)。法名「鉄圍秀公大禅定門」〔家忠日記、史料11-6、大系図、寛永、寛政〕。長可麾下の関小十郎右衛門共成(長安・成政)、長可とともに討死す(33歳)。法名「英公」〔寛永、寛政〕。
☆4.10 織田信雄、美濃脇田城主吉村又吉郎氏吉に昨日の合戦にて池田勝入父子・長可等を討取りし旨を報ず〔弘文荘所蔵文書、家康文書補遺〕。
☆4 忠政、長可の遺領を相続する〔実録5、寛永、寛政〕。
☆是春 可成弟宗兵衛可政、小牧長久手の戦いに参戦す〔可政〕。
☆9 忠政、同国愚渓寺に禁制を下す〔史料11-9〕。
☆是春 忠政、真屋新九郎を甲賀に遣わし、伴越前(はじめ右衛門尉)惟安・藤左衛門惟利父子を召し抱える〔実録5〕。 
長可(27)
忠政(15)