----- 僕の未来


    



 その日、空はどうしようもなく青くて、寝そべった部屋の窓から見上げていた僕は出かけることにした。
 
 休日の昼下がりは、人も街も開放感に溢れている。もしかしたら信号でさえ、いつもよりリラックスして点灯しているじゃないだろうかというくらいに。
 普段は気にも留めないで通り過ぎていた道も、いつの間にか生け垣から覗く桜がほころびかけているし、空気の匂いも甘く感じる。
 降り注ぐ日差しは暖かくて、僕の身体をやんわりと包み込むようにして通過していく。
 どこかで飛行機のエンジン音が聞こえる。そのずっと遠くてずっと近い部分で、街のざわめきが密やかに僕の耳を浸食していく。
 時折、風が僕の疼く傷を優しく撫でて吹き抜ける。
 僕は当てもなく歩き続けていた。
 部屋にいても、歩いていても、考えることはひとつだった。
 何でもっと上手く言えないんだろう、ということだけが僕の頭をずっと占めている。
 ジャケットのポケットに突っ込んでいた左手を出す。ぱっと開いて、そしてぐっと握ってみる。
 掴んでいるはずのものも、気付かないうちに取り逃がしてきてはしないか。それは、掴んできたものよりもずっと大切なものだったんじゃないんだろうか。
 ガードを緩めたふとした隙に、思いもしなかったところで相手を傷つけている。
 相手を思えば思うほど、その揺るぎない存在に甘えてしまう自分がいる。
 思われれば思われるほど、油断してしまう自分が怖くなる。
 そうやって、まだどこかで僕を縛る僕がいる。
 僕もようやく解き放たれたはずなのに。
 でも、時々はそういう僕でも良いかなと思う。
 これまでの僕を否定してしまえば僕はどこにもいなくなってしまうから。
 彼女のことが好きだったのは嘘じゃないし、どこかで代わりを捜そうとしてたことも事実だし。
 彼は僕と良く似ていたから、一番気心の知れた相手だったと思う。
 彼は徹底的に表に出さないことで、僕は演じることで、それぞれ押し殺していたから。
 だから、やっと見つけたと思った彼女を、彼がとても必要としていることにもすぐに気がついてしまった。
 彼がそれに気付いたのは随分と遅かったけど、押し殺しているものを解放したのは彼の方が早かった。
「隠していたら前に進めないことに気がついたんだ」
 彼は僕を真っ直ぐ見据えてそう言った。
「それに、疲れた。お前は疲れないの?」
 僕は曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。
「疲れてるよ」
 そっか、と彼は呟いた。
「早く見つけたいのに、まだ見つからない」
「……ごめん」
「何で謝るかな」
「分からない。けど、ごめん」
 困惑しているようなその顔は、今でも覚えている。
「何の根拠もないけど、お前にも必ずどこかにいるよ」
 そんな話をした日も、今日みたいな青い空だった。
 急にビルとビルの合間から強い風が吹き付けてきた。ゴミが入りそうになって、目をつぶる。
 そうだな、何の根拠もなかったけど、彼の言ったことは正しい。
 僕は思わず顔を緩めると携帯を取りだした。
 あの人を想う心がある限り、僕はきっと本当の僕でいられるはずだ。
 それには彼の言うとおり、ほんの少しのきっかけとたくさんの勇気が必要だけど。
 その為ならば、やっぱり僕は全てを失っても良いかなと思えるんだ。
「――もしもし、昨日の夜は……」
 そこから始まる、僕の未来。


                                - 終 -


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