----- 汝の罪人を愛せよ >>> 12 妃奈子の事件とは別件で、重要参考人の聴取に追われて幸は焦燥していた。取り敢えず今日は警視庁へ出向かなければならない。憮然とした顔のまま入り口を通り抜けると、前方を見覚えのある人物が辺りを見回しながら歩いている。エレベーターの前まで来ると、向こうも幸に気付いたのか声を上げた。 ◇ ◇ ◇ 禁煙の部屋なので火のついてないタバコを咥えながら幸はいらついていた。フィルターは既に甘噛みされてよれよれになっているが、どうせこのタバコに火を付けるつもりはない。一向に気にする気配もなく、再びフィルターに八つ当たりを始めていると少し離れたところにいる蓼倉が手招きをした。 以前食らったように行儀の悪いことは止めなさいと小言を言われるのかと思い、幸は首をすくめつつ蓼倉のもとへ行く。 「なんすか」 「幸、あの件ヤバイかもしれないわ」 「ヤバイって?」 思惑とは外れた蓼倉の第一声に幸は拍子抜けしたが、この場合、小言を食らう方がまだましだったかもしれない。 「もう関わらない方がいいかも」 幸は今ひとつ歯切れの悪い蓼倉の腕を掴むと部屋の隅まで引きずっていく。 「どういうことっすか」 「この間、牽制をね」 僅かに幸の顔つきが変わる。咥えていたタバコをようやく外すとそれはつまり、と言い淀んだ。 「上が絡んでる」 「なんて言われたんです」 「キミが飼い慣らそうとしてる子犬の面倒はちゃんと見てるのかってね」 「それで蓼倉さんは? 裏で手を回したのがバレたら…」 「もちろんすっとぼけたに決まってるでしょう。生憎僕はそう尻尾は出さないんでね」 安堵の息をついた幸に、蓼倉はそれにと再び口を開いた。 「『僕に何かある』わけないでしょう?」 含みを込めた笑みで返すと幸も口の端を僅かにゆるめた。 「じゃあ、今回は俺のこと切り捨てて下さい」 蓼倉は幸を見た。幸がなにやら不穏な事を考えている様子なのは目つきで一目瞭然だった。 「一部からしたり顔される程度とはいえ、それに見合うお仕置きはさせて貰うかもよ?」 「そんなの承知の上です」 幸は目を細めてうっすらと笑った。 「なあ幸、なんだってそんなに追っかけ回すの」 「蓼倉さん、前に俺に訊いたでしょ? なんでこの世界に来たのかって。たぶん及川妃奈子は俺がずっと引きずってるものと同じものを今引きずろうとしてるんです」 「それが杞憂に終わっても?」 幸は無言で頷いた。 「…そう。なら僕は黙って見ててあげるよ。共に這い上がれるか、落ちるか」 蓼倉は静かに笑った。 「落ちたときはどうなるんだろうね」 幸の頬が僅かに引きつった。思わず見た蓼倉の目は冷ややかに幸を見据え、口元には笑みをたたえていた。蓼倉の言わんとすることはなんなのか、幸は咄嗟には判断が付きかねた。 ただ確信できたのは、あの時自分を揺り動かしたときの表情と同じだということだけだ。試されているのだろう。幸はそう考えた。自分に課されている役割を思えば、こんなことで落ちるのは許さないと。 幸の心の中に初めて明確な形で一抹の不安がよぎった。 ◇ ◇ ◇ 「ハイ?!」 佐久間は口をぽかんと開けたまま、両手を膝の上に乗せて身を乗り出すようにテーブルの向かいに座る幸に声を上げた。 何人かが応接セットに座る二人の方にちらりと目線を向けたが、すぐに自分たちの仕事に戻っていく。相変わらず部屋の空気は澱んでいた。警視庁での用事を済ませて真っ先にこうして佐久間に会いに来たのだが、佐久間は連日の捜査でぐったりとしていた。それだけに幸の言葉がすぐには理解されなかったらしい。 「今なんて仰いました?」 「だから、及川妃奈子をしばらくお前んとこで預かってよ。なんとかなんない?」 佐久間は口元に手を当てて眉間にしわを寄せた。 「あんな子鹿のバンビみたいな子を、ウチの道場の門下生達の中に放り込ませたいんですか?」 「それを言われると返答に困るけど。寮とかあるんだろう?」 「ありますけど…男性恐怖症がひどくなっても知りませんよ。ただでさえ暑苦しい連中ばっかりなのに」 幸は目を細めて腕組みをしながら、灰皿からゆらゆらと上るタバコの煙を睨んだ。 「それが一番のネックなのは分かってるけどさ。それでも一時的に家から離すために預かってもらえそうなのって、佐久間のとこくらいしか浮かばないんだよな。事情も知ってるし、学校も近いし」 「ご家族と何かあったんですか?」 「家族と、というより本人の心理的な問題らしいけど」 珍しく覇気に欠ける幸の様子にほだされたのか、しばらく考え込んでいた佐久間は分かりましたと意を決したように言った。 「門下生でもないのに寮に入れるのは抵抗あるので出来ませんが、幸い兄が使ってた部屋が空いてることだし、そこを使って貰うということなら」 それを聞いて幸の顔が一気にほころんだ。立ち上がると佐久間の肩をぽんと叩いた。 「サンキュ、この借りは絶対返すから」 「え、保苑さんもう行かれるんですか?」 「うん、悪いけど。さっそく話しつけてくるわ」 「今からですか?!」 呆気にとられて立ち上がった佐久間に、幸は片目をつぶってごめんと手を挙げた。悪巧みを見逃してくれと言いたげな、どこかいたずらっぽい少年のような表情に佐久間は肩の力が抜けた。ああいう仕草を何気なくぽろっと見せるから、あちこちで騒がれていることに本人はどのくらい気付いているのだろうかと佐久間は思った。 「確信犯なら相当なタマよね」 幸が来た途端に廊下で無駄にうろうろし始めた、交通課の婦警達をかき分けていく幸の後ろ姿を見つめながら、佐久間は小さく呟く。携帯を取り出すと窓の外を見下ろしながら溜息をついた。 「あ、もしもし。お母さん?」 「もしもし、俺だけど」 その頃、警察署を出た幸は駅へ向かう道中で鞠子に電話を掛けていた。 「及川と会うのは次はいつ?」 『今日の午後三時よ。どうしたの?』 あまりのタイミングの良さに幸は心の中でガッツポーズをとった。 「あの件、話ついたから俺もそっちに行っていい?」 鞠子はもう? と驚きの声を上げる。 「早い方がいいんだろ?」 『ええ、そうだけど』 「そんじゃ、三時ね」 手早く告げて電話を切ると、幸は一段落ついて息を吐いた。 公園へ連れていこうとして逃げられて以来、気が咎めて連絡を取りづらくなってはいたが、これで妃奈子に拒まれたらどうなるのだろう。鞠子の話では妃奈子が自分に嫌悪感を抱いているような素振りは見られないらしいが、それでも自信がなかった。 まあ、しょうがない。 なるようになれだ。 心の中でそう言い聞かせながら幸は駅への道を急いだ。 Copyright (C) 2002 Mutsu Kisaka All Rights Reserved. |