----- 甘い復讐


   >>> 6


 

 車は特に渋滞することもなく、都内へ向かっていく。
 数十分の後、いかにも高級そうなマンションの前で止まった。
 サイドブレーキの音で妃奈子ははっと辺りを見回す。見慣れない場所だったが、そんなことはどうでもよかった。
 どうにかして隙をついて逃げ出さなくてはと、妃奈子はせわしなく目を動かして辺りの様子を窺っていたが、史信に腕を掴まれ、びくりと体を強張らせた。
「降りるんだ」
 妃奈子は言われるままに大人しく車から降りた。
 史信が運転手の男に何か耳打ちし、車は走り去った。妃奈子は遠ざかっていく車を目で追っていたが、再び史信に強く腕を引かれて体がよろめいた。史信はそんな妃奈子には関心を払う様子もなく、妃奈子を引っぱるようにしてオートロックの入り口を抜け、エレベーターに乗り込む。
 その横顔をちらりと見ながら、妃奈子は必死に隙を探した。
 史信が十二と表示されたボタンを押し、ドアがゆっくりと閉まり始めたその瞬間、妃奈子を掴んでいた手の力が一瞬緩んだ。
 今だ。
 妃奈子はその手を振り払うと、閉まりかけたドアの隙間へ体を滑り込ませようとした。
 しかしそれよりも一瞬早く史信は妃奈子を引き寄せ、その反動で妃奈子はエレベーターの壁に体を叩き付けられた。
 ドアが閉まり、エレベーターは音もなく動き始めた。
「何考えてるの、危ないだろう。怪我をするよ」
 何でもないことのような口振りで史信は言ったが、引き寄せた手に込められた力は先ほどより強く、明らかに妃奈子を牽制していた。
 エレベーターは静かに上昇し、やがて十二階で止まった。
 史信はちらりと妃奈子に目をやると、再び掴んだ腕を引きながら廊下へと足を踏み出した。突き当たりのドアの前までくると、カードキーを取り出す。微かにロックが解除されるくぐもった音が聞こえ、史信はドアを開けるとまず妃奈子を中に押しやった。
 少なくとも、学生一人が住むような部屋ではないことが広い玄関ですぐ分かった。だが、家族で住んでいるかといえば、それ独特の生活臭が全く感じられない。
 戸惑ったまま、妃奈子が玄関のたたきで立ちつくしていると、史信は上がってと背後で命令した。
 恐る恐る靴を脱いで廊下へ足を踏み入れると、先へ進めというように背中を押された。
「ここは……?」
「僕の部屋だ」
 廊下を進んだ先には二十畳はある広いリビングが構えていた。ソファやオーディオ機器が設えられてはいるものの、まるでモデルルームのようで、何とも味気のない部屋だと妃奈子は思った。
「ここに一人で住んでるの?」
「住んでいると言うよりも、遊び場みたいなものだね」
「遊び場?」
「学校に近い場所で、落ち着いて勉強が出来る部屋が欲しいと言ったら、ここを与えられた。それだけだ」
 吐き捨てるように史信は言いながら、妃奈子の鞄をソファの上に置いた。
 妃奈子はそろりと辺りを見渡した。どれもこれも高級品なのだろう。それをものともしない様子の史信に、自分とは違う存在なのだということを強く感じた。
 欲しいものは何でも与えられ、恐らく欲しいと思わないものまで与えられる。そういう環境に育てば、こうも金品に関してぞんざいに扱う人間になってしまうのだろうか。与えられるだけで、自ら得たものはないのだろうか。
 そもそも人の命など、何とも思っていないのかもしれない。だからこそ、妃奈子の兄の塙志(こうし)を殺めたことに何の罪悪感も感じていないのかもしれない。
 妃奈子は背筋が粟立った。再び緊張の糸が張りつめる。
「座れば」
 そう史信に勧められたものの、妃奈子は首を横に振った。
「家に帰して下さい」
「まだ着いたばかりだよ」
「来たくて来たわけじゃないもの」
 強気な口調のわりに恐れているのだと分かっているのだろう。史信は愉快そうにうっすらと表情を崩した。
「君は不思議な子だね」
「何が?」
「わざわざ相手をしてあげようっていうのに」
「相手?」
「君は珍しく僕の素性を知らないで近付いてきた子だったから」
 そろりと史信の手が伸びてくる。妃奈子はそれをはたいた。咄嗟にしでかした自分の行動にアッと顔が強張り、思わず史信の顔を見た。
 ふっと笑みを浮かべていた顔がひんやりとしたものに変わっている。
「どうしたの?」
 表情が変化してもどこか楽しげな声の調子は変わらず、それが妃奈子を余計に狼狽えさせた。
「やめて下さい。もう関わらない為にお金を突きつけたんじゃないの? どうして今さら……」
「誰が関わらないって言ったのかな」
「え……?」
 何を言われたのか分からず、妃奈子は訊き返した。
「僕は関わらないなんて言ってない。金は親が面倒を避けようと勝手に払っただけだ」
「そんな……」
「むしろ僕の方こそ訊きたい」
 史信の目つきが一層冷ややかになり、突き刺すように妃奈子に向けられた。
「二年前のことを、どうして今さら?」
 恐怖の色を浮かべた妃奈子の目が大きく見開かれた。
 その瞬間、妃奈子は史信がなぜこんなところへ自分を連れてきたのかを悟った。
 目的や理由がないなどというのは嘘だ。
 史信は復讐を目論んでいるのだ。
 ――殺されるかもしれない。
 妃奈子は初めて命の危険を感じた。
 早鐘のように心臓が高鳴り、呼吸が荒くなる。恐怖で背筋が凍りつき、体が震えてきた。まともに史信の顔を見ていられないが、目を離すことは出来ない。
 一刻も早くここから逃げ出さなくてはという焦りで一歩後ずさったが、敷いてあったラグに躓き、妃奈子は大きく尻餅をついて転んだ。
「何を慌ててるの」
「来ないで」
 近付こうとした史信に妃奈子は叫んだ。史信は足を止め、再び何の感情も見いだせない顔つきで妃奈子を見下ろした。
「もしかして勘違いしてる? 僕は別に恨んでやしないよ」
「嘘」
「嘘? まさか僕が君に仕返しをするとでも? 馬鹿馬鹿しい」 
 見透かされて妃奈子はきゅっと唇を噛んだ。
「どうして逃げようとするのかな」
「別に逃げてなんか……」
 反射的に返してしまい、妃奈子は口をつぐんだ。
「そう、良かった」
 史信が嬉しそうな表情を浮かべたことで、またもや後悔の念に駆られる。妃奈子は泣き出したくなるような思いで、転んだ拍子にぶつけて赤くなった膝小僧を見つめた。
「振り出しに戻ろう。今になってあのことを蒸し返されたことなんて、はっきり言って僕はもうどうでもいいんだ」
 見つめていた膝小僧に影が落ちて、妃奈子は顔を上げた。
「ちょうどフリーになったばかりだし、相手をしてあげてもいいよ」
 すっと目の前に史信の顔が現れて、妃奈子の視線は覗き込んでくる目を見返したまま、文字通り固まった。心臓はこれ以上ないくらいに高速で動き続け、呼吸のペースは一段と速くなっていく。
 頬から伝わるひんやりとした感触で、妃奈子は史信に触れられていることに気付いた。身の毛もよだつとはこういうことを言うのだろう。総立ちになった産毛で史信の手のひらを感知しているしているようなものだった。
 そして、史信の顔が近付こうとしたその時、妃奈子は突然息苦しくなって史信のシャツの胸元を掴んだ。
「緊張してる? 怖がることはないさ。そうだ、リラックスできるクスリをあげるよ」
 耳元で囁きながら史信はジャケットのポケットを探る。ピルケースを取り出すと妃奈子の顔の前で振って見せた。
「ほら、綺麗だろう」
 丸い粒がぶつかり合ってカラカラと音を立てる。だがラムネ菓子のように硬質で繊細な音は、妃奈子の鼓膜にぼんやりと伝わっただけだった。
 史信は器用に片手でケースの蓋を開けると、一粒取り出して妃奈子に飲ませようとする。それを拒もうと顔を背けるが、息苦しさに加えて身体も言うことをきかなくなってきていた。
 声を出そうにも、息をすることが出来ない。
 何かされそうになっているのは分かっているが、もはやそれどころではなかった。妃奈子は自分に向かってくる史信に助けを求めるように、掴んだ手に力を入れた。
 史信はようやく妃奈子の異変に気が付くと、ほんの少し体を引いた。
 怖がっていたくせに自分から向かってくるとはどういう事だと訝しんだのもつかの間、まるで首でも絞められているかのような妃奈子の様子にぎょっとして、史信は頬にあてがっていた手を離した。
「な、何だよ……?」
 その拍子に手にしていた白い粒が手から放り出され、テーブルの下に転がっていく。史信はそれにチラリと目をやったが再び妃奈子に視線を戻した。
 一体、妃奈子に何が起こったのか分からず、史信は妃奈子の手を引き剥がそうとしたが、ブツブツとボタンが引きちぎれながら胸元がはだけた。
「おい、手を離せ」
 史信は気味が悪くなり、声を荒げた。
 助けて、
 妃奈子は声にならない声を上げた。
 息を吸い込んでも吸い込んでも、まだ足りない。
 このまま死んでしまうのではないかという不安感に囚われる。
 助けて、
「離せよ!」
 再度、史信が叫ぶ。
 目の前が暗くなり、史信の姿を捉えることも出来なくなっていく。
 その狭間に自分たち以外のところで物音が聞こえたような気がした。 
 不意に幸のことを思い出した。
 ああ、と妃奈子は心の中で悲痛な声を上げる。
 逃げようとして逃げられなかったときはどうやって助けを求めたら良かったのか。
 幸は教えてはくれなかった。
 保苑さん、助けて。
 そう闇に向かって叫んだ瞬間、妃奈子は誰かに抱き起こされたような気がした。


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