-----  秘密の花園




 もろびとこぞりて むかえまつれ
 久しく 待ちにし
 主は来ませり 主は来ませり
 主は 主は来ませり……

 歩道橋の上で、あたしは立ち止まった。
 遠くで音楽が鳴っている。しばらくその音に耳を傾けて、再び歩き出す。
 スペアの鍵をポケットの中で握りしめてみる。もうすっかり体温で温まっているソレの本当の持ち主は、多分いない。
 そっけなくバイトがあるって言われちゃったし。
 そうだね、別につき合ってるとか、向こうはそんなんじゃないだろうし。
 多分。
 あたしが勝手に押しかけてるだけだもん。


 でもね、なんか匂いだけでも感じていたいんだ、今日は。


   * * *


 先輩と出会ったのは、大学に入ってすぐ。サークル勧誘らしき人達に紛れて、ものすごくやる気なさそうな顔でチラシを突きつけられたのがきっかけだった。
 なのに、そのチラシには「やる気のある人求む」とか書いてあったもんだから、思わず
「あなたはやる気あるんですか」
 なんて偉そうなこと言っちゃったんだよね。無造作ヘア、と言えば聞こえはいい癖のある髪、無精ひげで眼鏡の奥の目が何言ってんだコイツ、って感じで細められて、
「知りたかったら来れば」
 ってかわされた。
 映画研究会って、映画あんまり興味ないんだけど。
 でも、その人のこと、知りたくて行ってしまった。
「え、やる気なさそうなヒゲメガネ? そりゃ、あれだ。副部長、イリヤくんだよ」
 軽いノリの部長さんは、すぐそう答えた。
「イリヤー、イリヤくーん。ご指名ー」
「や、あの、そんなんじゃないです」
「ていうか、希望者だよね、名前は?」
「あ、甘城園子(あまぎそのこ)です…けど、でもあのっ」
 ずるずると部屋の中に引きずり込まれて、あたしはその“イリヤ”さんの前に突き出された。
「ああ、俺にやる気あるのって訊いたクソ生意気な子か」
 う、穏便そうな雰囲気でそんなこと言われるとちょっとちくっと傷付いちゃう。
「入るんだ?」
「えっ」
 いたずらっぽく笑いかけられて、あたしは固まった。
「知りたいから来たんでしょ?」
 うわぁ、この人、やる気なさそうな振りして、実はとんでもない釣り師だったのかな。
「イリヤくん、意外とやるじゃん」
 部長さんが、にやりとあたしを見て笑った。


   * * *


 イリヤ先輩は、こっそり姿を追ってるといつも何か書いていた。
「先輩、何書いてるんですか」
「本」
「ホン?」
「脚本だよ。なんだ自分、マジで映画に興味があったわけじゃないんだ?」
 先輩は呆れた顔してあたしに原稿用紙を見せてくれた。
「見るのは好きですけど…。作ろうと思ったことはないです」
「ははぁ、どうりでねぇ」
 失笑してる先輩の横で、紙に目を通すけど、なんだか抽象的であんまりよく分かんなかった。先輩はその間、メガネを外すとハンカチでくるくるとレンズを拭いている。つぶらだけど、けっこう綺麗な目だな、と思った。
「あたしも、なんかやった方がいいですか?」
「さあ、やりたかったらやれば」
「そんなテキトーでいいんですか?」
「いいんじゃない、だって自分の目的は、映画じゃないわけだし」
 だから、それは。と言いかけて、あたしは口をつぐんでしまった。こだわるなぁ。
「ウソウソ、リョウさんが女優探してたし、役目はあるよ」
 なぜかみんなから“リョウさん”と下の名前で呼ばれてる部長さんの、不敵な笑みが頭に浮かんだ。あの意味深な笑みはそういうことだったのか?
「じょゆう?! あたしそんなの無理ですよ」
「無理っつってもやるんだよ」
「そんなの、だって、やったことありません」
「大丈夫だって。セリフ少ないし、笑ってりゃいいんだから」
 イリヤ先輩は紙をあたしから取り上げた。手から紙が滑っていく瞬間、ちくっと痛みが走った。
「イタ……」
 人差し指に、一筋、うっすらと赤い線がついている。先輩が、何? とあたしの手に目を向けた。
「なんでもないです」
「切った? 見せてみ」
 もう一方の手で隠したけど、先輩はあたしの手を掴んだ。ちいさな傷を見つけると、あ、ごめん。と先輩は小さく呟いた。
「バンソウコウないわ」
「や、これくらい別にいいですって」
「そう?」
「そうです。血もほとんど出てないし」
 あたしはすかさず手を引っ込めると、へらへらと笑った。やだなあ、なんで顔が火照っちゃうんだろう。
「……まあ、大丈夫だよ。カメラ回すの俺だし」
「え?」
 メガネを人差し指でくいっと押し上げながら立ち上がると、先輩は唐突に言った。
「リョウさんと違って上手いから、多少はごまかしが利くよ」
「それって、カメラ写りの悪さは気にするなってことですか」
 イリヤ先輩はくすっと笑っただけでそれ以上は何も言わなかった。


   * * *


 でも、実際、撮影は楽しかったんだわ。
 ヒーロー物のパロディで、確かにあたしの出番は少ないし、笑ってるだけで良かったんだけど。
 カメラを覗くイリヤ先輩の顔が全然違ってて、カメラ目線で笑わなきゃいけないときはいつも妙にどきどきした。
 なんとなく、彼女いたりするのかなぁ、なんて気になってきたりして。そういう雰囲気なさそうだけど、でも、実は上手くやってたりするんだよね、こういう人って。
 研究室の窓からぼーっと外を眺める。窓の下のジャズ研から、知らない曲が流れている。
「なにぼっとしてんの」
 頭の上に冷たい缶が乗せられてあたしは肩をすくめた。
「あ、や、別に……」
 アナタのことを考えてました、なんて言えるわけなくて、あたしは言葉を濁す。
「あ、そう。もう帰るんだけど、自分はどうする?」
「あ、じゃあ、あたしも帰ります。てゆうか、今日は早くないですか?」
「リョウさんがウチ来たいって言うから」
 缶コーヒーを飲みながら、イリヤ先輩はちらりと入り口にいるリョウさんに目を向けた。
「園子ちゃんも来る? イリヤくんちで朝までビデオ鑑賞会すんの」
 リョウさんが得意げに両腕を組んで言った。
「行っていいんですか?」
「別にいいけど」
 イリヤ先輩は素っ気なく答えた。
「どうせヤロウ二人だったじゃん。多い方が楽しくていいでしょ」
「つか、定員があるんだからさ」
 イリヤ先輩とリョウさんはブツブツ言いながら歩いていく。イリヤ先輩のアパートは、学校の近くにあるらしい。
 外国の映画のポスター。あちこちにビデオテープ、本、CDが脈絡もなく積み上げられている。本棚はあるけど、すでにそこには物が入るスペースはない。汚くはないけど、雑然としてる。お兄ちゃんいるし、男の人の部屋って初めてじゃないけど、でもなんだか緊張してぎこちない。
 こっそり彼女の気配を探そうとあちこち見回したりして、女の子が使いそうな物が転がってないかな、とかチェック入れたりする自分がいる。
「今日は朝まで『ツイン・ピークス』だから!!」
 って盛り上がってたリョウさんが気がついたらダウンしてたのは午前2時過ぎ。
「このヒト最悪。自分から言っといて……」
 イリヤ先輩が、顔をしかめながら、床に転がってるリョウさんを見下ろした。
「自分も、眠かったら無理しないでいいよ。ベッド使っていいし」
「先輩はまだ寝ないんですか」
「うん、こないだの推敲するから」
 すでにあたしも頭が朦朧としていた。
「えっと、リョウさんは……?」
「いいよ、このままほっとけば」
 そうなんですか? うーん、このままほっといたら風邪ひいちゃいそうだけど、でも頭が働かない。
「……すみません、ベッド使わせてもらいます」
「どーぞ」
 先輩はテレビの音のボリュームを下げると、コンポの電源を入れた。あ、コレ知ってる。お兄ちゃんがよくかけるんだ。ゆったりとしたテンポで、穏やかなボーカル。
「先輩、この曲好きなんですか」
「そうだね、……嫌いだったら家でかけないと思うけど」
「あー、そうですよね」
 何訊いてるんだろ、あたしダメダメだな。
「先輩、何してるんですか」
「だから、推敲……。自分、もう寝ろよ」
 ごめんなさい、ああ、こんなこと訊きたい訳じゃないのに。知りたいことは、ほかにもっといっぱいあるのに。ベッドに横になったら、真っ正面に先輩の横顔。
 メガネの隙間から、伏せた睫毛が見える。時折、考え込むようにして手を口元に当てる。そして、きゅっとメガネを押し上げて、ペンを走らせる。その繰り返し。
 途端に頭が急に冴えてくる。それはきっと、そこかしこで先輩の匂いがするから。その匂いにどきどきしてしまうから。
 あたしは意を決して、起きあがった。
「先輩」
「何」
「彼女いますか?」
「いないよ」
 一瞬の間をおいて、先輩は答えた。
「じゃあ、好きな人は?」
「いない」
 それを聞いて、あたしの胸がどきんと高鳴る。言ってしまおうか、どうしようか。このまま今の関係を続けていく方を選ぶか、痛手を受けることになったとしても前に進むべきか。
 そう考えて気付いた。すでにこの時点で前に進んでしまっている。こんな何のひねりもない問いかけは、暗に告白をしているようなものなのだ。先輩はもう気付いているんだろう。
 答えは震えながら吐き出された。
「あの、私、立候補していいですか」
 先輩は、紙に目を落としたまま、しばらく黙っていた。
 やっぱり、まずいこと言ってしまったかな。でも、このまま自分の気持ちをごまかしていたくはなかった。
 先輩の近くに行きたかった。
「……ていうか、いいの?」
「え?」
「分かってるのかどうか知らないけど、俺マメな方じゃないし」
 先輩が静かに呟いた。
「すぐには、好きになったりとか、そういうの出来ないけど。それでもいいの?」
「それでも、いいです」
 一瞬、拒絶されてしまったような気がして、息が詰まる。
「友達から、つーのもヘンだよな」
 先輩はふっと笑った。
「そうですね」
 あたしも曖昧に笑った。


   * * *


 だけど、友達から先に進むのはそんなに時間は掛からなかった。
 なんとなく、先輩の所に遊びに行くことが多くなって、
 なんとなく、キスをしたりして、
 なんとなく、エッチをしたりして。
 先輩から好きって言われたことはなかったけど、でもだからっていい加減な扱いを受けてるとは感じなかった。
「先輩?」
「何」
 あたしは先輩の部屋で何気なく見た郵便物の宛名を見て愕然とした。
「先輩って名前がイリヤだったの?!」
「はぁ? 何言ってんの」
「てっきりあたし、イリヤって名字だとばっかり……」
 先輩はテレビから目を離すとあたしをまじまじと見つめる。
「今さらそれに気付くの? 鈍いよ、鈍すぎ」
「だって……」
「だから、リョウさんも名前で呼ばれてるでしょ」
 今度はあたしがはぁ? という顔をすると、先輩はあたしが見てた郵便物を取り上げた。
「リョウさんは佐藤亮、俺は佐藤伊里也。そんなのが部長と副部長やってたら紛らわしいから」
「ああ…なんだ。あたしずっと『入谷』とかって字を書くのかなって思ってた」
「だいたい、新入りが集まった初日に自己紹介したでしょ」
 あたしその日は風邪で学校休んでたんだよね。そうか、だからみんな何の抵抗もなく名前で呼んでたのか。
「違和感感じながら“リョウさん”て呼んでたんだ」
「うん……」
 先輩はくっくと笑い出す。ああ、バカにされてて悔しいんだけれども、先輩の笑う顔って可愛いんだよね。
「自分、ほんとアホだねぇ」
「紛らわしいのがいけないんです!」
 眼鏡を外して、涙を拭いてる。そんなに笑わなくってもいいじゃない。
 先輩に近付けば近付くほど、好きになる。
 好きって言いたくなってしまう。
 私のこと好きですかって口走ってしまいそうになる。
 そして、その言葉で先輩の顔が曇ってしまうのを恐れている。

 あの子のこと、言えないな。


   * * *


 そして、あたしはゆっくりとドアを開ける。
 しんとした部屋。
 どうせ遅いんだし、散らかってるのを片づけたりして、気が済んだら家に帰ろう。
 そう思ってたのに、なんだか哀しくなってきて、あたしは部屋の真ん中で座り込んだまま動けなくなってしまった。
 先輩はあたしのこと、好きじゃないのかな。
 都合のいい女って思ってたりして。
 
 もろびとこぞりて むかえまつれ
 久しく 待ちにし
 主は来ませり 主は来ませり
 主は 主は来ませり

 さっき流れてた曲を口ずさんでみる。
 あたしの望む主は、来ないじゃないかぁ。


「コラ」
 ぺち、と頬を叩かれて目が覚めた。
「ん」
 ここはどこ、わたしはだれ。
「電話しても出ないと思ったら、なんでここにいんの?」 
「えっ、あ、先輩? あれっ?!」
「あれじゃないでしょうが。いいの、こんな時間まで」
 驚いた顔しながら先輩があたしの顔を覗き込む。
「うそっ、ちょっと、ケータイ、ケータイどこっ?!」
 先輩がリダイヤルボタンを押した。どこからか、ぶぶぶと振動音がしている。
「なんだよ、バイブにしてたのか?」
 なぜかベッドの掛け布団の合間に埋もれていたケータイを先輩が探し出すと、あたしに手渡した。やだなぁ、最悪。メソメソ泣いてしまったから、先輩が帰るまでに帰ろうと思ってたのに。ていうか、帰らなきゃ親がウルサイのに。
 複雑そうな顔してケータイを見つめてたら、先輩が甘い香りが漂う白い箱を差し出した。
「今日はさ、適当なこと言って、ここに泊まってけよ」
「え?」
「ほんとは一人でやるつもりだったけど、参加させてやるからさ」
「なんだ、ケーキ?」
 フォークを二本持ってきて、ひとつをあたしに差し出すと、先輩はにっと笑った。
「そう、ホールを丸々ひとり食い」
「はあ?! これを?」
「しかも、真ん中から食うんだ。いいだろう」
「いいだろうじゃないってば」
「ちょっとやってみたいって思っただろう」
「思ってない!」
 あっそ、と先輩はそっけなく返したけど、再びあたしのケータイをとんと指した。
「いいから、親に電話しろって」
「でも…」
「クリスマスに彼氏といるのはイヤってか?」
 あたしはまじまじと先輩を見つめた。
「先輩はあたしの彼氏?」
 先輩もまじまじとあたしを見た。
「自分、立候補したんじゃないの?」
「そうだけど」
 あたしはケータイを握りしめた。
「……そうだけど、先輩、好きになったって言ってくれないんだもん」
「だって、いつ言うんだよ?」
「いつ?」
「いつの間にか、そばにいるのが普通で、いつの間にか、そばにいて欲しくてって。そんなの『今日から好きになった』なんて言えるモンじゃないだろうが」
「だったら」
 だんだん先輩の顔がぼやけてきて、気がついたらあたしはまた泣き出していた。
「だったらせめて名前で呼んで。“自分”ってほかの人と同じじゃなくて」
「……園子」
 先輩が、ティッシュを差し出しながら恥ずかしそうに呟いた。
「聞こえないよ」
「園子」
 今度は少し大きな声。
「……何度も言わせるなよ」
「あたしは、伊里也先輩が好きだよ」
 先輩は困ったような顔をしてる。
「嫌いだったら、こういう日に泊まってけって無理強いしないよ」
 そういう言い方をするときは、先輩がお気に入りのモノだってこと。
 あたしは思わず笑ってしまってから、先輩に抱きついた。


 もろびとこぞりて むかえまつれ
 久しく 待ちにし
 主は来ませり 主は来ませり
 主は 主は来ませり

 しぼめる心の 花を咲かせ
 めぐみの つゆ置く
 主は来ませり 主は来ませり
 主は 主は来ませり……


                                - 終 -


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