-----  ラブリー


   >>> 9



 蝦沢椿。
 これが四歳になる前までの椿の名前。
 北野椿。
 これが今の椿の名前。
 物心がついたときには、もう北野椿だったから、あたしは蝦沢椿だったときの椿のことはよく知らない。知らないし、その事には触れちゃいけないような雰囲気があったから聞いたこともなかった。
 渋谷駅で会ったあの子が気になる。
 椿が女の子と仲良くしてるのを見たことはほとんどなかった。必要最低限というか、小学生の頃は男の子としか遊んでなかったし、おばさんが亡くなってからは男の子ともあまり口をきかなくなったし。高校の頃なんて完全に威嚇して遠ざけてたから。
 だから、椿がああして女の子と、しかも自分自身のことを話してるのはすごく意外だった。顔が引きつっちゃってるのが自分でも分かって、すぐには声を掛けられなかった。
 なんであの子は蝦沢椿だった椿を知ってるんだろう。
 家に帰って、お風呂やベッドで一人になると、頭の中はその事ばかりになってしまう。 なんであの子は椿も知らないことを知ってるんだろう。
 心臓の音ばかりが聞こえてなかなか眠れなかった。

「あのね、おじさん」
 ある日、椿の帰りが遅いのを知っていたからこっそりおじさんに会いに行った。
「蝦沢椿だったときの椿って、どんなだった?」
「どんなって、そうだなぁ」
 おじさんは手にしていたCDをプレイヤーのトレイに置くと、振り返って笑った。トレイが本体に吸い込まれて、やがて穏やかにチェロが響き始める。おじさんが好きなバッハだ。あたしはおじさんの言葉を待つほんの僅かの間にその音に耳を傾ける。
 Tシャツに、いい感じに色落ちしたジーンズを履いたおじさんは、後ろ姿だけだととても実年齢と伴わない。ここ最近は無精ひげを生やしてるからスーツも似合わなそうだ。いや、お姉ちゃんの結婚式の時はそれなりに似合ってたかな。お姉ちゃんは、おじさんと椿とで黒いサングラス掛けて並んだらブルースブラザーズよって大笑いしてたけど。
「お母さんにべったりの甘ったれだったかなぁ。もっとも、それは純の策略だったらしいから、ホントに甘ったれなのかはビミョウなんだけどね」
「それって沙苗おばさんがいた頃と同じ?」
 おじさんはくっくと笑いながら、そうかもねと答えた。
「なんせあの人たちは、今生きてたら椿の性格も違う方向に歪むんじゃないかってくらいの熱愛夫婦だったからねぇ」
「そんなにらぶらぶだったの?」
 おじさんはコーヒーを一口飲むと、口元を緩める。
「だって沙苗さんが呆れてたくらいだからね。あんなお兄ちゃん見たことないって。椿の頭の中じゃバカップルって認識されてるみたいよ」
 バカップルか。確かにそんな両親の元で育ったら、それはそれで椿はひねくれてそうだけど。でも、寂しい思いはしないんじゃないかな。
「椿のお母さんはめちゃくちゃキレイだったって、お姉ちゃんよく言ってたな」
「へえ、美千代ちゃんは覚えてるんだ? そうだよね、時々遊びに来てたもんな」
 まあ世間一般に言って綺麗な部類に入るねぇとおじさんは遠回しな言い方をした。きっとおじさんは血の繋がりがあるから、ストレートに言うのが照れくさいんだろうな。椿のお母さんはおじさんの親戚で、椿のお父さんと沙苗おばさんは兄妹だ。大学の時に出会って、不思議な縁でこんな関係になったらしい。
 あたしは覚えてないけど、お姉ちゃんはまだ小さいあたしの手を引いてしょっちゅうこの家に遊びに来てたから、椿のお母さんにも会ったことがあるんだって。
「椿って、やっぱお母さん似なの?」
「そうだねぇ。目つきも似てるし、性格も似てるかもね」
 ふぅん、とあたしは呟いた。悔しいけど、全然覚えてない。
「そういえばあいつもおかしなこと言ってたけどさ、なんかあったの?」
「え?」
「いや、親のことは知りたがらないのに、珍しく訊いてきたからさ」
 あ、と言ったきり、あたしはおじさんの顔を見つめた。ん? とおじさんがあたしを見つめ返す。おじさんは、誘導尋問をするのが得意だ。
「あの、昔の椿を知ってる子がいて」
 こんなことをおじさんに喋っちゃっていいのか分からないけど、話さずにはいられなかった。足下に目線を落として、さらに続けた。
「椿も知らないことを知ってるの」
「それで美哉ちゃんは悔しいんだ?」
 どきりとして、違うと言いかけて、またおじさんの顔を見る。おじさんは優しい顔をして微笑んでいた。
「そう、かもしれない。うん、悔しいんだ、きっと」
 椿のことはあたしがなんでも知ってるって思ってたから。
「あのね、モリタタカコって人、知ってる?」
「あー、それ、椿も言ってた」
 でも知らない、とおじさんは言った。おじさんも知らない人? ますます分からない。
「この間から引っかかってるんだよ。蝦沢の名前を知ってるってことは、ここに来る前のとこでの知り合いなのかもしれないけど」
 うーんと唸りながら、おじさんはなんだろうねと呟いた。
「その子が覚えてるんなら椿も覚えててよさそうだけどね。あ、でも別の子に夢中で眼中になかったか」
「別の子?」
 あたしは眉をひそめた。
「そ、人見知りする椿が初対面からあと追っかけ回してたの。齢一歳半でもうよその女に取られたって純がふてくされるしさ、面白かったなあれは」
 おじさんはその時のことが脳裏に浮かんだのか、思い出し笑いをしている。椿があとを追っかけるような子って誰よ? あたしまでふてくされそうになっていると、おじさんはにやっと笑ってあたしを見た。
「美千代ちゃんまで取っちゃダメって椿に怒りだして、なのに当の本人たちはにこにこしながらチューしてるしさ」
 思わず息を飲む。チュー…?
「美哉ちゃん覚えてないんだ? ま、よちよち歩きの頃じゃそうだよね。あの頃から君たちはらぶらぶだったんだよ」
「らっ?!」 
 頬がちりちりと熱くなってきた。
「ねぇねぇ、どっちから?」
「はっ?!」
「だって、椿に訊いたらものすごい顔して睨まれたから訊けなくて。ね、どっち?」
 なんでそんな嬉しそうな顔して訊くの? バレバレって、つまりこういうこと?!
「ど、どっちって、なにが?」
 しどろもどろで答えたら、またまたとぼけちゃってとおじさんはいやらしそうな笑みを浮かべた。椿がエロ親父って言っている意味分かったような気がするわ。
「どっちから好きって言ったの?」
「え…?」
 その言葉であたしは一気に真顔に戻って固まった。あたしを見て、おじさんも固まってしまった。
 スキ? 
「もしかして、言ってないの?」
 恐る恐るといった感じで口にしたおじさんは目を見開いていたけど、すぐに大きな声で笑い出した。
「うわぁ、もう、らしいなぁ」
「らしいって、なにがっ?!」
 詰め寄ってもおじさんは答えてくれない。ひとしきり笑うとはーっと溜息をついた。
「でもほら、二人して眉間にしわ寄せてるくらいなら、思ってることは言わなきゃ」
 玄関の方から物音が聞こえて、二人でそっちの方を向いてから、おじさんはこそっと早口で言った。
「僕なんかに訊くんじゃなくってね」
 そう言い終わると同時にドアが開いて、少しビックリした顔の椿がいた。
 おじさんはふふっといたずらっぽく笑うと立ち上がった。


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