----- 水の中の女





 中学校の敷地の片隅に設けられた屋外プールは、まだ梅雨明け前ということもあってどぶのように濁っており、抹茶味のプリンが腐ったようだった。カラメル部分にあたる底を覗き込んでみても、澱んだその部分は、底があるのかどうかすらも分からない。
 この約400トンにも及ぶ水の濁りは、昨年秋に閉められてから今日までの間に蓄積された不穏な感情の集大成に違いない。幾つもの教室から投げ込まれ、積もり積もって出来上がる。教育の場であろうと、その質の悪さは社会のあちこちで湧いて出るものとは変わらないのだ。
 降り続ける雨が水面に幾つもの円を作り、互いを干渉しあって消えていく。
 ボウフラが飛び込み台の下でふらふらと塊になって漂っていた。
 その光景を見渡し、保苑幸は身震いをひとつしたが、原因が肌寒さによるものか、嫌悪感によるものかは分からなかった。
「保苑、こっちだ」
 警視庁刑事部捜査一課強行犯係、その同じ係に属する刑事に呼ばれ、幸は雨に濡れて鈍く光るプールサイドを歩いた。
「俺が一番乗りかと思ってましたよ」
「甘いな」
 幸を呼んだ彼は透明なビニール傘越しに鼻で笑った。少し離れた所で派出所の警官が落ち着かない様子で駆けつけた一同を見つめており、幸は警官に手を挙げて挨拶をしてから、改めてプールの中を覗き込んだ。
 長い髪が水中で海草のように揺らめいていた。水分を含んでふやけた肌が茶褐色の水に一際映えており、蝋人形のように青白くくすんでいた。虚ろな瞳が真っ直ぐ空を見上げ、紫色に変色した唇は半開きになっている。白いブラウス、淡い黄色のスカートから伸びた手足は、浮力に任せるままだらりと浮かんでいた。
「へぇ」
 一目見た感想はそのひと言だった。何の感情も湧かず、ただひと言、口から漏れ出たように幸は呟いた。
 幸が警視庁の刑事部に移って二年。運が良いのか悪いのか、彼が所属する係はしばしばこういった事件に多く当たっている。
 遭遇する死体に対しての幸の反応に、感覚が鈍麻してやがると捉えたのか、度胸が据わってやがると捉えたのか、四十間近のその刑事は微かににやりと口元を緩めた。
「昨日今日って感じじゃなさそうだな」
「殺しですかね。自殺にしちゃおかしな場所選んだもんですよ」
「目立ちたがりなのかも知れんぞ」
 白と黄色のコントラストをじっと見つめていた幸は顔を上げ、校舎を見上げた。
「教室からはここは見えないようですね。だから発見も遅れたのか」
 ん、と彼も顔を上げて校舎に目をやったものの、すぐに被害者に向き直った。
「中学校だと、プールの水深はどのくらいだ?」
「さあ、一メートル…、十センチ、十五センチってところじゃないですか。にしてもオフシーズンだとこんなに汚ないとは」
「遺留品探そうにも皇居のお堀みたいで何も見えやしねぇ。この雨の中、こりゃ鑑識の連中も大変だな」
 そう言うと彼は手を腰に当てて溜息をついた。
「蓼倉さんは? あの人が来なきゃ始まらんのに」
「少なくとも高田さんよりは早く来ますよ」
 肩をすくめながら答え、幸は再び校舎の方に目を向けた。  
「学校か。俺、大嫌いでしたよ」


 ・  ・  ・


 強く照りつけてくる夏の日差しは、白いカーテンによって柔らかく遮断されていた。
 保健室のベッドでうとうとと微睡んでいた幸は、勢いよく開けられたカーテンの音に微かに目を開けた。
「保苑君、勝手にベッド使わないでちょうだい」
 仁王立ちの白衣姿が見え、幸は再び目を閉じた。
「ああ、桐山(とうやま)センセイ。おはようゴザイマス」
「そう言いながら、どうしてまた寝ようとするのよ」
 乱暴に掛け布団を捲られ、幸はしぶしぶ体を起こした。目を擦りながら大きくあくびをする幸を呆れ顔で見ながら、保健医の桐山はるひは掛け布団を畳む。
 幸は彼女からほのかに香る香水の匂いにしばし気を取られ、そしてひとつにまとめられた、緩くウエーブのかかった栗色の髪を見つめた。白衣の下のパステルカラーのカットソーは色白の彼女によく似合い、口調のキツさに反して、ふんわりと柔らかな印象を与えていた。
「ここは体調の悪い生徒が使うのよ、サボりが使うものじゃないの」
「体調なら悪いよ」
「え?」
 眉をひそめた桐山に、幸はまだ醒めない目をしょぼつかせた。
「昨日徹夜でビデオ見ててさ、寝てないからだるい」
「それは自業自得と言うんです」
 ベッドから立ち上がると幸は大きくのびをした。身長は百七十五を超えてもなお伸び盛りのようで、細身でしなやかなその体躯はまだ少年らしさが漂い、開襟シャツの裾からはちらりと可愛らしいへそが覗いた。
「あら」
 幸が伸ばした腕に、桐山がそっと触れた。
「何」
「痣が出来てる」
「どっかでぶつけたんでしょ、別に大したことないよ」
「それにしては酷いわよ。気を付けなさいね?」 
「はーい」
 聞き流すような軽い調子で答えると、幸は机に置かれていたペットボトルのお茶を飲んだ。
「ちょっと、それ私のよ」
「ごめん、全部飲んだりしないから」
 ごくりと音を立てながら、幸の喉仏が上下する。
 一息ついて、ようやく目が覚めたのか、茶褐色の瞳に輝きが戻った。くせ毛の髪をくしゃくしゃと掻きながら、幸は手近な丸椅子に腰掛ける。
 机に向かって書き物を始める桐山の姿を幸は眺めた。
「誰も来ないし、センセイ暇そうだね」
「そう見えるだけよ。いろいろ忙しいの」
「俺みたいなヤツの相手したりね」
「そうそう」
 顔を上げることなく、くすりと笑いながら桐山は相づちを打った。
「ホラ、起きたんなら教室戻りなさい」
「あと五分で二限目終わるから、それまで」
 壁に掛かった時計を見上げて、幸は所在なさげに部屋を見渡した。
 開け放たれた窓から、グラウンドの喧騒が微かに部屋の中にこぼれてくる。そよぐ風がベッドの回りのカーテンを揺らし、窓際の棚には桐山が育てているのだろうポトスやアイビーが、葉の表面で受け止めた光をはね返していた。
 授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、幸は無言で立ち上がった。桐山が顔を上げると、またねというように手を挙げてそのまま静かに保健室を出ていった。


 桐山が観察する限り、保苑幸という生徒はどこか風変わりな生徒だった。
 こうして頻繁に保健室を訪れ、授業をサボっている割には、成績はいつも上位三十番前後をキープしているようだ。
 小綺麗な顔立ち、すらりとした長身の肢体を見て女子生徒達が黙っているはずもなく、休憩時間に訪れてくる生徒たちの話からもその人気振りの程は窺えた。しかし、一見して人当たりの良さそうな幸が、誰か特定の子とつき合っているという話は耳にしたことがない。
 惚れた腫れたに大騒ぎする年頃で、あれだけもてていれば選り取り見取りなのは言うまでもなく、さぞ楽しいだろうにと桐山は思うのだが、本人はあまり快くないらしい。だがそうやって快くない態度を示すのは、実は他校の生徒なり、つき合っている子が既にいるからなのだろうと桐山は勝手に解釈している。
 以前、とりとめもない世間話の中で、巷を騒がせた殺人事件の犯人の初公判について意見を述べ合った時、妙に刑法に詳しく、大義名分に則った辛辣な幸の意見に桐山は軽く驚いたことがあった。普段はどこか肩透かしを食わせているだけに、そういった幸の姿は意外で、もしかすると周りが想定しているよりもずっと真面目な子なのかも知れないと桐山は考えた。
 もしそうならば、なぜ保健室の常連となっているのか。桐山は時折その理由を探ってみたくなるのだが、幸は気配を察するのが上手いらしく、いつも巧みに交わされていた。
 桐山は先ほど見つけた、幸の腕の痣を思い出した。まさかと思いつつも、家庭で何かトラブルでもあるのだろうかと勘ぐってしまう。邪推を振り払おうと、桐山はペットボトルのお茶に手を伸ばした。キャップを開けかけたところで今度は幸の喉仏を思い出し、そんなことを思い出してしまう自分に気恥ずかしさを覚えて、再びキャップを閉めると元の位置に戻した。


 ドアを後ろ手に閉めると、幸は小さく息をついた。
 腕の痣を指摘された時には一瞬ひやりとしたが、ごまかすために咄嗟にペットボトルに手を伸ばしたのは幼稚だったかな、と考えた。
 自分が利用されるようになったのはいつからだろうか。
 発端は他校の生徒との諍いをたまたま仲裁したことだった。一部の連中が幸のことをチンピラのバックにいるやくざの親玉のように勘違いして、あちこちでケンカを吹っ掛けては泣きついてくるようになったのだ。無下に扱うのもなんなので仕方なく相手をしていたが、あれよあれよという間に話に尾ひれがつき、揉め事の後始末なら保苑幸、と密やかに言われるようになってしまった。
 女子に取り囲まれる華やかな世界とはまた別の、裏の世界で幸は名を馳せて人気者だったのである。
 とはいっても、幸は面倒見はいい方だが、仲間を引き連れて歩くようなガキ大将タイプではない。子供の頃に、警官による誤射で危うく命を落とし掛けて以来、過剰なまでに母親が過保護になったくらい体は弱かった。そのため周囲からやたらと気に掛けられるのを疎んじた幸は、短絡的に、自分が強くなれば煩うこともなくなるだろうと、剣道やら柔道やら格闘技にあたるものは手当たり次第に手をつけただけなのである。もともと運動神経は良かったのだろう。いずれもそれなりに上達したが、体も丈夫になったと自覚するやいなや、師に惜しまれながらもあっさりとやめてしまった。鍛えることが目的で、それほど闘争心のない幸には頂点を極めるまで強くなろうという気はなかったのだ。
 高校生になった今では、身体も平均を上回りつつあり、本来なら心配されるようなことは何一つ無いはずだった。だが、昔よりもさらに周囲の目を気にしながら暗躍しなければならない現状は、苦痛以外の何ものでもない。肉体的には発散されているのかもしれない。だが反比例して、精神的にはどんどん鬱屈していくだけだった。誰か一人を殴るたび、腹の底でぽこんと小さな黒い塊が生まれ、蹴り上げるたびにまたぽこんと湧き出てくる。
 幸はその塊を吐き出す術を知らなかった。いつか体中がその塊で埋め尽くされる前に止めなければと思うのだが、そんな日はやってくるのだろうかとも思う。
 ひと通りの技術を身につけたことが結果として仇になっているが、幸本人にはもうどうすることも出来ないのだ。
 昨日も一仕事こなしたのだが、おそらく腕の痣はその時のものなのだろう。
 そしていつもにも増して幸を虚無感に囚われさせたのは、一昨日に聞かされた、犯人の出所だった。そもそも警官の誤射も、強盗犯人の人質になってしまったからだったのだが、傷害も起こしていた男は、警官に撃たれた幸を結果として助けたために情状酌量で減刑されていた。命の恩人といっても、犯罪を犯した人物であることには変わりなく、幸にとって愉快な話ではなかった。
 目が覚めても教室に戻る気にはなれず、三限目もサボるべくこのまま屋上に向かおうかと思っていた幸は、のろのろと階段を上っている途中で同じクラスの女子生徒数人と鉢合わせた。
「保苑君大丈夫?」
 媚びるような心配顔にしまったと内心思いながら、幸は何とかねと笑顔を向けた。
「次の時間は化学教室に移動だよ」
「……遅れそうなら先生に言っておこうか?」
「ああ、うん、そうだね。もし間に合わなかったらお願い」
 まかせといて、と頬を赤らめる彼女たちを見送ると、幸は別段急ごうともせず、教室に向かうために再び階段を上り始めた。
 最後に声を掛けたきた子から告白され、断ったのは先週だったか。必死に失恋の痛手から立ち直ろうと平然を装う様子は誰の目からも明らかで、極力そのことには触れないよう、幸も今まで通りに接しようと気を遣っていた。
 何やってんだろうな、俺。
 既に人もまばらな教室に戻り、「保苑、次、化学教室だって」と掛けられる声に生返事をしながら幸は机の中から教科書を引っ張り出した。
 そうやって幸自ら気を配っているのに、彼女を取り巻く女子生徒は、傷ついた彼女を励ましているようで、早くも浮ついた気持ちをしっかりと幸に向けていたりするのだ。言葉には出さなくても、幸がまだ誰も選んでいないことにひっそりと歓喜しているのを目の当たりにすれば、愚痴の一つもこぼしたくなる。しかし不満を実際に口に出したが最後、恵まれてる奴が何を言うかとひんしゅくを買うだけなのは分かり切っていた。
 考えるだけ無駄だ。
 女子生徒たちの顔を頭からざっと押し流し、それでも流しきれないでいることに気づくたびに、幸は何やってんだろうなと自分をあざ笑わずにはいられなかった。


 その日、帰宅途中にうっかりと地下鉄を一駅乗り過ごしてしまった桐山は、街道沿いを歩いていた。
 晩ご飯は何にしようかとのんきなことを考えていたのだが、ふと見た前方に見覚えのある姿を捉えた。その瞬間、自分の歩みが鈍くなったことにも気づかないで、桐山はその人物を見据えた。
 私服ではあるが、間違いなく保苑幸だ。
 正確には彼を取り巻く一群だったのだが、保苑幸という生徒のプライベートを垣間見ることが出来るかもしれないという、猛烈な誘惑に桐山は打ち勝つことが出来ず、足は自然と彼らを追っていた。
 学校では品行方正な部類に入る幸も、一歩校外へ出れば素行不良な生徒なのだろうか。幸を含め七、八人ほどの一群は、仲のよいお友達という風には見えない。
 次第にひと気の少ない河川敷の方へ向かっていることを桐山は悟った。じんわりと汗ばんだ手の中には、いつの間にバッグから取り出したのか、携帯電話があった。携帯を握る手の強さに気づき、自分を諫めるように、桐山は心を落ち着かせようとゆっくりと息を吐いた。
 何も起きないはず、警察沙汰になるようなことなんて何も起きない。そう言い聞かせつつも、彼らを追う速度は次第に速くなっていく。
 川土手の向こうへ消えた彼らに気づかれないように、少し離れたところから土手を上った桐山は、ガツンという鈍い骨のぶつかる音を聞いた。
 音のした方向へ顔を向けると、幸が見事に一人の少年の顔にカウンターを決めたところだった。相手は何歩か後方によろめくと無様な尻餅をついた。幸は殴った方の手を痛そうに二、三回振り、次は誰だというようにぐるりと一同を見渡している。
 携帯を持つ手に力が入り、肩が震えてくるのを桐山は感じた。彼は多勢を相手に一体何をしているのか。混乱している間にも、幸の周りに、一人、また一人としたたかに腹を殴られたり、投げ飛ばされたりしてうずくまる輩が増えていく。
 身を潜めつつではあるが、次第に彼らに近づいていた桐山は、まるでお約束の展開とばかりに足下の小枝をパキリと派手に踏みしめてしまった。
「おい、見られてんぞ!」
 身動きが取れずうずくまっていた少年が叫んだ。 
 その声に幸が振り返った。桐山の方へ真っ直ぐ向いたその顔は、恐らく学校では見ることの出来ない表情だった。あからさまに驚いて目を見開いている幸同様、桐山もしまったと我が身の軽率さを恥じたがそれは既に遅い。
 依然として桐山から目を離さない幸は、案の定、隙ありとばかりに頬にきつい一発を食らった。打ち所が悪かったのか鼻血がぽたぽたと地面に落ちる。
 シャツに点々と落ちてゆく赤い染みを見て、桐山は初めてこの場に血が流れたことを知った。意図的なのかどうかはともかく、幸は流血沙汰にならない程度に相手を痛めつけていたのだ。
「あなたたちこんなところで何やってるの。やめなさい!」
 ようやく上げた声は微かに震え、威嚇どころか鼻であしらわれてしまいそうな感じだった。案の定、まだ幸と対戦していなかった数人が、にやりと口の端をゆがませて笑った。
「オネーサンこそ何やってんの? こんなとこで」
「うぜぇよ、早くどっかに行け」
「あなた達どこの生徒?!」
「どこだっていいじゃん」
「オネーサン結構キレーだね」
「何だよ、ヤられちゃいたいの?」
 のろのろと向かってくる相手に、桐山はひるんで一歩後退した。少年たちの手が自分の方へ伸び、桐山は柄にもなく小さな叫び声を上げた。
 身体に触れられると思ったその時、桐山の目の前に大きな影がそびえて伸びてくる手を遮った。一歩下がって見上げたその影は、いつの間に回り込んだのか、幸だった。
 幸はにやにやと薄ら笑いを浮かべる相手の前に立ちふさがった。
「おまえらの気が済んでるなら、俺もう帰るけどさ。その後で女がヤられちゃってました、なんていうのもいい気はしないからな。どうすんの? もう終わり?」
「ハァ? 何言ってんだよ」
「終わってねぇよ、ふざけんな」
「カッコつけてんじゃねぇよ、どけ」
 幸は舌打ちをした。小声で、アンタも余計なことすんなよと桐山に向かって言うと、離れてろと桐山を後方へ押しやった。
 それから幸は伸びてくる手を掴んでひねり上げ、地面に叩き付けた。電光石火のような早業で向かってくる相手を殴り、蹴り上げ、投げ飛ばした。先ほどと比べて容赦のないその様は、桐山をかばう為には見えなかった。少年たちに対しての怒りでもなく、何か別の、もともと幸に溜まっていたぶつけどころのない感情の吐き出しだった。普段は押さえ込まれているのであろう、体の中に蓄積された暗鬱の塊の吐き出し。
 鋭い眼光で動き回る幸を、桐山は半ば呆然と見つめていた。気がつけば、幸はうずくまっている輩の中心に立って肩で息をしており、桐山は慌てて幸の腕を掴むとそこから逃げ出すように駆けだした。
 無我夢中で自分の住むマンションの部屋まで辿り着き、幸を中に押し込むと桐山は鍵を閉めた。友達でさえも、狭いからと部屋に上げるのを拒んでいたくせになぜこんなことをと後悔したが、鼻をつまんで止血している幸のぼんやりした顔を見てしまうと、もう後には引けなかった。
「先生に見られてなきゃさ、こんなケガなんかしてなかったんだよ」
 それまで無言だった幸は、タオルにくるまれた保冷剤を頬に押しつけられて開口一番に毒づいた。
「そういう問題じゃないでしょう」
「このこと、誰かに言う気?」
 何を言い出すのだこの子は、と桐山はまた口が開きかけたが、今まで見たことのない刺すような幸の視線に口を閉じた。
「言って欲しくないのね」
「当たり前でしょ、今まで上手くやってたんだ」
「今まで?」
 ぴくりと幸の眉が動いた。
「……どうしてあんな大勢相手とケンカしてたの? 今までって、度々あったってこと? 何かケンカを売られるようなことでもしたの?」
 次々に質問をぶつけていたが、桐山ははっとした。
「まさか、この間の腕の痣も……?」
「先生、喋りすぎ」
 あからさまに不機嫌な声でそう返すと、幸は勝手に傍にあったテレビのリモコンを取り上げた。
 プツンという音の後に、賑やかなコマーシャルが流れ始め、重苦しさをからかうように軽い音楽が二人の間をすり抜けていく。
「世の中にはさぁ、何もして無くてもケンカ売られることがあるし、買わざるを得ないことがあるんだよ」
「なに一人前なこと言ってるのよ」
「それが現実だよ」
 何も分からないくせに、と暗に言われたような気がして桐山はムッとしたが、幸はテレビに目を向けたまま低い声で言った。
「俺の現実」
「保苑君……?」
「面倒くさくて全部投げ出したいけど、そうすることを許されないとき、先生ならどうする?」
 幸の背中から発される、棘のようなオーラに桐山は息を飲んだ。
 目の前にいるのは、本当にあの保苑幸なのだろうか。誰に対しても穏やかで、目立つ振る舞いでもないのに男女問わず人目を引き、それらから逃れるようにふらりと保健室に現れては、時折いたずらっぽい笑みを浮かべながら桐山をからかう、あの保苑幸なのか。
 誰も寄せ付けようとしない強い拒絶、夕暮れ時の闇に紛れて消えてしまいそうなほど暗い影、自らを痛めて傷つけるような投げやりな言葉。今こうして桐山の部屋に座り、テレビの光を映すだけの瞳をした幸を、誰も知らないだろう。これが保苑幸という少年の本来の姿なのだろうか。
「……まあ、今の俺に対する先生見てたら、それが答えなのかもしれないね」
 桐山が答えあぐねていると、幸は一人納得するように呟いた。
「保苑君、何か悩んでることがあるんなら……」
「悩みがあったとしても、誰かにどうにかして貰おうなんて思ってないよ」
「何言ってるのよ」
「先生、どうにかしてくれんの? ただ好奇心で話聞きたいだけなんじゃない?」
 はぐらかすようにテレビに向けられていた目が、桐山を射抜くように真っ直ぐこちらを向いた。
「よくさ、話せば楽になるとか言うじゃん。たとえば誰かに悩みを打ち明けられて、それに俺が何かアドバイスをしたとするよね。でもほとんどの場合、相手は俺に話すことで既に解決策を見いだしてることの方が多くて、俺が手助けをしたからじゃない。そういうの、ケチな考え方かもしれないけど、俺すごくがっかりするんだよ。俺のアドバイスは何の意味もなかったって。だから俺なら悩みがあったとしても話さない。相手に無駄な気苦労を掛けるだけなら、それは意味のない会話だよ」
「そんなことないわよ」
 桐山は幸の膝とつき合わせるようにして座った。
「意味がないなんてことないわよ」
「相手のことを思って一生懸命考えたことが、結局相手に取り入れられなかったら、それは意味のないことだよ」
「だとしても、保苑君が誰かに悩みを打ち明けることまでもが、意味のないことにはならないわよ」
 幸は微かに目を細めた。
「ああ、先生はそれがお仕事だったよね」
 集団生活において、傷ついたり、迷ったりした子羊を受け入れる救済者。幸は足下を見つめながら呟いた。
「打開策を投げかけっぱなしで、受け入れて貰えないのって、先生はどういう気分?」
「受け入れて貰えないなんて、思ったこともないわよ」
 桐山は次第に背筋が寒くなってくるのを感じた。
 なんなのよ、この子は。
 自分が想像だにしなかったことを次々とぶつけられ、桐山は困惑するのを隠しきれなかった。
 相手はまだ十代の子供じゃない。
 自分に言い聞かせながら、まるで適性検査でも受けているような、試されているような感覚に襲われた桐山は、鈍く光る幸の眼差しを見返した。
「じゃあ、保苑君が抱えてる心の中のもやもやしたものは、どこにぶつけるの?」
「さあ……。ただ腹の中に飲み込んだままじゃないかな。もしそのもやもやがあったならね」
 あっさりとはぐらかされ、桐山は唇を噛んだ。
「だから、俺どうにかして貰おうなんて思ってないから」
 幸は苦笑した。以前、子供っぽい表情をするよねとからかわれたことがあったが、あの時と同じ顔で幸は笑った。当時は気にならなかったその笑い方が、桐山は気にくわなかった。変に大人びているのが小憎たらしかった。
 なぜこれまで気にならなかったのだろう。それが幸の巧みな手腕だとしたら、尚更のこと、桐山は騙されていた自分が恥ずかしかった。
 本当は何か抱え込んでいるに違いない。なのに彼はそれをさらけ出すのを頑なに拒む。桐山には解決することなど出来ないとはなから決めつけ、たいしたことじゃないとでも言うかのようにあしらう。
 大人として、教育の場で医療に携わる者として、救いの手を差し伸べなければならないはずなのに、頼られることすらされていないことに桐山は苛立ちを覚えた。
 どうしたら、彼の子供の部分を引きずり出せるのだろう。
 どうしたら。
 いつの間にか、桐山の中で目的がすり替わっており、もはや幸が抱えている悩みなど頭になかった。
 大人をたぶらかしてはするりと逃げるのを妨げてやりたくなった。飄々とした顔が苦痛に歪めばいい。甘えてすがることに溺れて抜け出せなくなればいい。逃げ道を断たれて泣きべそをかかせることが出来れば一層良い。
 次第に破壊的な考えに進展していることに驚きながら、桐山は悟った。そこまで追い込まれても構わないと思わせる、それが保苑幸の『男』としての魅力なのだろうか。周りを引き寄せていく目には見えない彼の力は、自分には通用しないと自負していたはずなのに、とてつもない吸引力に抗えなくなっているのか。
「先生?」
 訝しげな声に、弾かれるように桐山は顔を上げた。
 幸と視線が絡まる。
 身じろぎ一つで切れてしまいそうな、呼吸一つすることさえはばかられるような、ごく細い糸で互いの間が結ばれていた。
 幸の鳶色の瞳は、逆光でその色を確かめることが出来ない。
 ただ見つめ合うだけの間、幸が普段学校で見せる、明朗快活な姿はどこにも無かった。あるのは仄暗い少年の影だけだ。
 ふと、何かを壊したいという衝動が桐山の腹の底で湧き起こり、それはマグマとなってふつふつと身体の上部へと押し上がってきた。言葉になる前に、目が訴えた。それは二人をつなぐ透明な糸を通して、はっきりと幸にも伝わったのだろう。幸の目の色が微かに変わった。
 次の瞬間、音もなく静かに体が引き合い、唇が重なった。
 そのまま、折り重なるようにして床に倒れ込む。
 さっきまで冷やしていた幸の頬が首元を掠めて、桐山は自分の体の熱さに気づいた。今まで異性とつき合うという縁がなく、つい最近になってようやく彼氏と呼べるような相手が出来たのだが、その相手に果たしてこういう感情が湧き起こり得たのだろうか。
 例え起こったとしても、もうあの人とは会えないと、幸に腿の辺りをまさぐられながら桐山は考えた。
「先生、ごめんね」
 果てた後に、唐突に幸が呟いた。
「本当は悪いだなんて思ってもいないくせに」
 幸の髪をいじりながら桐山は笑った。
「保苑君、あなたは悪い子ね」
 なぜかぽろりと口をついて出た言葉だったが、幸に対するその評価に自分自身で妙に納得し、桐山はもう一度言った。
「悪い子」
 その時、幸が顔を上げ、桐山を覗き込んだ。
 はにかむような、くすぐったそうな笑みに桐山は虚をつかれた。
 それは保苑幸が見せた、今までで一番子供っぽい顔つきだった。


 ・  ・  ・


 あれからしばらくして桐山は学校から去った。壇上で挨拶をする桐山をぼんやりと見つめながら、産休の代理で長くはいない人だったことを知り、これで良かったのだと幸は思った。このまますぐ近くにいるような状況で、背徳的な秘密を共有し続けるのは無理だと思ったし、ずるずると関係を持ってしまうような間柄になるのも恐れたからだ。
 今となっては甘酸っぱいどころか、しょっぱいような苦々しさしか残らない高校生の頃を不意に思い出し、幸は苦虫を噛み潰したような顔つきで、水に浮かんで雨に打たれるままになっている女を再び見た。
 そういえばあの時に引き剥がした桐山の服は、レモンイエローのワンピースに白いカーディガンだった。あれが初めての行為だったが、その時もそれ以降も、本能のままに体を動かす自分を、頭の片隅で嗤いながら見つめる自分がいた。
 俺は何をやってるんだと行為の最中によぎっては煩悩から引き戻され、ほんの少し興醒めしてしまうのを、また振り払うように没頭する行為とはなんなのか。
 少なくとも保苑幸にとっては、愛情の確認というものではなく、生物学的に組み込まれた必要不可欠な排泄行為の一部のようだった。
 それゆえに、大学に入ってからは、たがが外れたように不特定多数と関係を持ってみたりもしたが、格別良いものと感じたことがない。
 不意に湧き出た過去を振り返りながら、こんな時にはみ出してくるなよと毒づいて、幸は自分の中のくすんだ部分をまた強引に押し込んだ。
 このプールもあと半月も経てば、何事も無かったかのように、辺り一面が太陽の照り返す光で輝き、澄んだ水が幾つもしぶきを上げる騒々しい場所へと生まれ変わるのだろう。
 そんな光景はいつか自分の中にも訪れるだろうかと考えたが、眩しいのは一年の内のほんの数ヶ月、たったひと夏の間でしかなく、しかも澱んだ季節と交互になって半永久的に繰り返されていくのだということに気づいてしまった幸は、つかの間の夢さえぶち壊してしまう自分を呪った。
 それでもまだしぶとく期待しようとするのは、それだけ切羽詰まっているからなのか。何やってんだろうと自嘲してしまう行為は、あの頃から未だ抜けきらない。これから先、淡い夢を見続けながらも嗤うことを永遠に続けていくのだろうか。それを思うと、桐山の言葉がちくりと胸を刺した。
『悪い子ね』
 そうやって幸は自分の本来あるべき姿を見破って欲しいのかもしれない。だからこそ、毒をもって毒を制すのだと、自分を引き抜くときに言った蓼倉に付いていこうと決めたのだ。
 幸は気を取り直すようにひとつ大きく深呼吸すると、ポケットから湿気を含んできた白い手袋を取り出してはめた。

                               - 終 -


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