翌朝、校門の前は報道陣だらけで幸は正直ばっくれたい気分だった。幸いなことに、中尾は幸達のことは伏せておいてくれたらしい。そうでもしなければ警視庁に手柄を持って行かれることになるのだから当たり前といえばそうなのだが。
道理で胡散臭かったはずだ。彼は自分がホシだと思って監視していたのだろうか。見抜けなかった自分もどうかと思ったが、それ以上に自分を犯人だと疑うとは厚生局は大丈夫なのかと幸はいらぬ心配をする。見た目が大学生らしいからと言う理由で任務を言い渡された新人だろうと、幸は勝手に中尾の本来の姿を推測した。
幸は裏門の方へ回る。こうなることを予想して早めに家を出たものの、全く意味がなかったことに苛つきながらタバコに火を付けた。
三上はネットを通じてLSDを入手し、こっそり生徒達に流していたらしい。何故そんなことをしたのかは今のところ取調中だ。昨日の妃奈子の話からすると、大方、女子生徒の体目当てと言ったところか。
アホらしい、と幸は心の中で呟いた。
次第に校内の汚濁が滲み出てきている。例の転落死事件の犯人が挙げられるかどうか、時間との戦いになってきた。泣いても笑っても実習期間の終わる日がデッドラインだ。だが、この一件で犯人はしばらく身を潜めてしまうだろう。条件はさらに厳しくなった。
幸はこんな所に送り込んだ上司の顔を思い浮かべた。そして苦虫を噛み潰したような顔で裏門をすり抜けると校舎へ向かった。
◇ ◇ ◇
「なんで俺なんだかなあ」
四月某日、東京23区内にある某警察署の刑事課のデスクにふんぞり返って、幸は不服そうに愚痴る。女子高生転落死事故に他殺の線が浮上したため、警視庁刑事部捜査一課からここへ派遣されてきたのだが、派遣先でこんなにも不躾な態度がとれるのは幸くらいである。この署に所属の刑事、花垣(はながき)と佐久間(さくま)は幸の両脇に腕組みをして立っている。
「だって、花垣君は逆に女子高生に手を出しかねないし、あたしだとミイラ取りがミイラになりかねないでしょう?」
だれがミイラ取りだ、師範の父親持つ娘がよく言うわと幸は佐久間を呆れた顔で見上げる。
「花垣でもいいじゃん。生徒で通用するだろ?」
「そりゃ通用しますけど」
佐久間は同意したものの花垣を見た。161センチ、55キロという警察官採用資格ぎりぎりの体格の花垣はへらっと笑った。そのへんの女の子より遙かにかわいらしい顔をしているが、その頭の中身はグラビアアイドルでいっぱいである。かたや佐久間は170センチはあろうかという長身である。大人っぽい雰囲気は刑事課の目の保養だが、空手の有段者なので男性陣は迂闊には近づけないという有様だ。
「花垣にしてみりゃ天国だよな」
「そりゃ願ってもないですけどね。どっちにしても、僕は高卒だし佐久間先輩は短大卒で四大でてるのは保苑さんだけなんです」
「あの人だってそーじゃねえか」
「警部じゃおっさんすぎてだめなんですよー」
「そりゃ言えてんな」
三人はうひゃうひゃと笑う。周りにいる他の課の連中がやれやれと首を振る。
「………おまえらなあ、そんなだから陰で『捜査一課』じゃなくて『カルガモ一課』なんて言われるんだよ? 少しは俺の身にもなれ」
その“おっさん”呼ばわりされた男が幸の真後ろに立った。幸と共に警視庁から派遣されてきた蓼倉(たでくら)である。おっさんといっても精悍な顔付きの割に普段の言動は穏やかだし、見た目もとても30代には見えないのだが。
「あ」
幸は椅子からのけ反り、蓼倉の顔を仰ぎ見る。
「ああっ、おはようございます、警部」
「おう、花垣。別に“おっさん”でも構わないんだよ、んー?」
蓼倉は笑いながら花垣の頭をぐりぐりとなでる。目が笑ってないだけに花垣は固まる。
「花垣君はともかくあたしまで『カルガモ』扱いは憤慨だわ」
佐久間はフンと鼻を鳴らした。とにかくね、と蓼倉は幸の前に資料をどさっと置いた。
「これは課長命令です。幸、あんたが行ってらっしゃい」
幸は恨めしそうな顔で蓼倉を見ると、目の前の資料の山に溜息をついた。
◇ ◇ ◇
潜入にあたって準備に約二ヶ月を要した。
その間、幸は一度学校へ出向いたことがあった。
新入生達の姿がまだ初々しい春の陽気の中、幸は重い足取りで門をくぐる。
他殺かも知れないという新たな情報を持ち込んできたのは被害者の親だった。学校関係者にとって数々の良くない噂は、目の上のたんこぶ以外何物でもない。一刻も早く払拭したいと思うのは至極当然のことだろう。特に学校の経営者ならば警察の手を介さずに行いたいところだが、そこに通う生徒の親たちはそんなことはどうでも良いのだ。
ましてや娘が死んでしまった今となっては、もうなんの関わりもないような所ならば。
幸は建物の前まで来ると立ち止まり、辺りを見回した。教室などがある棟とは別棟になっている建物に来客用の入り口を見つける。書類を提出すると校内を見学して良いかと尋ねた。事務員が長時間でなければと承諾したので、幸は教室の配置を確認するようにぶらぶらと最上階までを見て回る。
授業中なのか校内は静まり返っている。普通教室がある棟の陰になり、特別教室がある棟の廊下は昼間でも明かりが灯っていた。不穏な空気がそのまま集まって澱んでいるように見えた。
階段を下りているとぺたぺたという足音が聞こえて、幸は教師だろうかと一瞬戸惑い、下りかけた足を止める。一人の女子生徒が階段を上ってくるところで、幸に驚いて立ち止まった。何でこんな時間に生徒がうろついているのかと怪訝な顔をしつつ、幸はその生徒を見る。生徒は無言で歩き始めた。幸の脇を通り過ぎるときに軽くお辞儀をして足早に階段を上っていくと、教室が並んでいる廊下へ向かっていった。
幸は暫くその後ろ姿を見送っていた。突然、何となく彼女がこの世に存在しないような気がして、後を追いかけた。ふわふわと漂うように歩く後ろ姿が見えた。
幸は実習日誌を書きながら、あ、と声を上げた。今思えばあの時の生徒は妃奈子だったのではないのか。保健室からの帰りだったのだろう。青白い顔が一層幻想的だった。
幸の上げた小さな声を聞いて、神田は顔を上げた。小テストの採点をしながら彼は心底うんざりしたように溜息をついた。
「当分騒ぎは続くんだろうね。校長も対応にてんてこ舞いだろう。身内がまいた種とはいえ、なんてことしてくれたんだか」
幸が曖昧に笑って相づちを打つと神田はそう言えば、と続ける。
「教生に麻薬捜査官が混じってたんだろう? あれには驚いたなぁ。潜入捜査だなんて、いざ行われてみると分かんないもんなんだな」
幸はぎょっとしたように固まる。すいませんここにもう一人あなたを欺いている男がいますと心の中で呟いた。
「そうですね。僕もまさかと思いましたよ」
幸はお愛想程度に答えると再び日誌に目を落としてペンを走らせ始める。神田は幸があまり話に乗ってこない様子に物足りない表情を浮かべたが、すぐに同室の日本史の教師に話しかけ始めた。幸はその様子を見計らうと、部屋を出た。
教師の薬物売買発覚で、噂の件は解決されたような雰囲気が漂っていた。今日は教育委員会だ、父母会だと大騒ぎで、授業は午前中で打ち切りになっている。校内に残っている生徒はもう殆どいなかった。
幸はぶらぶらとあてもなく歩き始めた。ふと、五階の例の教室の前で足が止まる。視聴覚教室の隣に位置しているこの教室は、社会科準備室の丁度真上に当たる。現在は生徒数の減少で多目的ルームと称して空き部屋になっている。鍵は掛かっていないはずだ。幸は戸に手を掛けた。
「なにやってんだそこで」
幸は戸を開けて開口一番、そう言った。妃奈子が驚いたまま、幸の方を見て体を硬直させている。今は妃奈子一人だが、ほかにも誰かいるのだろう。机の上に四、五人の鞄が散らばっていた。
この部屋は、他の教室で余った机と椅子が部屋の一隅に押しやるように置かれていて、通常は広く使えるようにしてあるようだった。妃奈子達はそれらを人数分、部屋の中心部へ移動させたらしい。
「今日は部活も中止でみんな帰宅するはずだろう」
「あの、宿題やって帰ろうと思って。教室だと父母会やってるから…。みんなはお腹空いたって売店に行ってて…」
妃奈子はぼそぼそと弁解する。幸は呆れつつ髪を掻き上げる。
「なんで休校になったか分かってんの」
「分かってるよ」
「じゃあ、とっとと帰んなさい」
「…帰りたくないんだもん」
妃奈子は俯いた。
「アンタが学校好きには見えないけどね」
「好きじゃないけど、家よりはましだから」
「へえ、親でもうるさいの」
妃奈子ははっとして、しまったという表情をする。幸は戸口に凭れて腕を組んでいたが、教室内に入る。
「分かりやすいねえ」
幸はそう言いながら、黒板がある側の片隅に水槽がいくつも積まれているのを見つけた。近付いて中を覗いてみると、様々な昆虫が中でうごめいている。振り返って妃奈子にこれはなんだと目で尋ねる。
「えーと、生物部が飼ってる小動物用の餌で、場所がないからここで飼育してるみたい。うじゃうじゃいて気持ち悪いよね…」
妃奈子は肩をすくめてそう言った。幸は辺りを見渡しながら窓へと近付く。窓枠のあたりを調べてみたが、これといって気になるような所は見られなかった。
妃奈子は椅子に座ったままじっとしていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「センセイって彼女いるの?」
「はあ?」
幸は調べていた手を止めて、ぽかんと妃奈子を見る。からかっているのかと幸は思ったが、真面目な顔で妃奈子は尚も続けた。
「クラスの子達が、センセイのこと知りたくても何も教えてくれないって。だから代わりに聞いてみようかなって思って」
幸は目を細める。
「なんでアンタ達ってそういうこと聞きたがるんだかね」
「いるかいないかくらい、教えてあげてもいいと思う」
妃奈子は頬杖をついて口を尖らせた。
「答えたがらないってことはいるんだ?」
「さあ、どうでしょうねぇ」
「そうやって意味ありげな言い方するから、実は女たらしだって陰で言わ…あ」
口を滑らし、妃奈子は幸の顔色をうかがうように見る。幸は妃奈子の暴言など気にも止めずに外を眺める。幸にしてみればそんな言われようはこれっぽっちも応えなかった。
「アンタがいるって思うなら、そう思っとけばいいでしょ」
「誤解されたらイヤじゃないの?」
「別に」
幸は窓枠に寄りかかると、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「俺が自分のことしゃべんないのはどうしてか分かるでしょうに」
「え? あたしが?」
妃奈子はぽかんとした顔で幸を見上げる。幸はやれやれと息を吐くと、警察手帳が入ってる胸ポケットをぽんぽんと叩いた。
「…ああそうか」
妃奈子は自分だけが握っている幸の秘密を改めて認識した様子で目を軽く見開く。
頼みますよお嬢さん、と幸は心の中でうなだれた。
「この間みたいなことはもう絶対やるなよ」
妃奈子が幸の顔をじっと見る。大きな瞳が妙に輝いて、次なる任務はなにかと訴えているように見えた。その分、心なしか普段よりも血色が良いような気がする。
幸はそれを振り払うように大きくを息を吐くと、目を細める。
「いや、なにを期待してるのかは知らないけど、冗談で言ってんじゃないぞ。三上はまだ序の口だ」
途端に妃奈子の瞳から輝きが消える。
「いいか、アメリカの有名な猟奇殺人犯が言ってたことの受け売りだけど、変なヤツにからまれたときはイヤって言えよ。それから逃げる、叫ぶ、誰かに助けを求める」
幸は指折り数えてそう言った。
「まあ、状況によるけど、相手が複数じゃなければまずこれで何とかなるはずだから」
妃奈子の表情がにわかに曇った。ふっと俯いて両手を強く握りしめている。
「どうした?」
幸は妃奈子の様子の変化に気が付くと、近付いてそばにしゃがみ込んだ。肩が小さく震えていた。
「あたしは、なにも、なにも出来なかった」
一点を見つめて妃奈子は言うと、固く目をつぶった。
「だからお兄ちゃんは死んじゃったんだ」
妃奈子に伸ばし掛けた手が止まった。
「もしあの時…」
幸はまさか妃奈子が自分からその件に触れるとは思いもしなかった。中途半端だった手を妃奈子の頭にぽんと乗せた。
「今言ったことを忘れなければ、次はきっと大丈夫だよ」
妃奈子はゆっくりと目を開けて、幸をおそるおそる見る。泣き出しそうになるのを必死に堪えているのか、口元が震えている。
幸は安心させるように、妃奈子に微笑んで見せた。
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